浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

「植物人間」や「乳幼児」はもとより、「偽大人」であっても、共生社会の一員である

立岩真也『私的所有論』(23)

今回は、安楽死尊厳死について書こうと思っていたのだが、後でもう少し詳しい話があるようなので、後回しにして、第4章 他者 第3節 自己決定 の第4項に進もう。

 

4 決定しない存在・決定できない事態について

植物状態脳死状態の人は、自己決定できない。乳幼児は自己決定できる事柄は少ない。乳幼児と同等の知性(理解力)しかない「偽大人」*1も、まともに自己決定ができないだろう。

行為のために決定が必要であり、決定のために決定能力が要請される。

これは当然である。しかし、このことと次のこととは独立である。

・決定能力を、その人が人であること殺してはならない存在であること)の資格とすること

・その人が生きていくことができること

 だから、

決定を尊重することは、決定しない(決定能力を持たない)ことを否定することにつながらない。

しかし、「決定能力を人である(殺してはならない)ことの条件とする」、即ち、決定能力が無ければ、人ではない(殺しても良い)とする主張があり、第5章で検討される。偽大人はどういう扱いになるのだろうか。

 

決定し、制御することが困難な、あるいは不可能な事態への対応について

私たちは様々なことが思い通りにならないことに大いに困っている。例えば病であれば、治らないことがあるという否定しようのない事実がある。…結局は、自分で決定できないものが私に訪れることになる。ここで、決定を委ねられても、決定のためにと情報を渡されても、私としてはどうしたら良いかわからない、うろたえてしまうことがあるだろうと思う。例えば、私は早晩死ぬのだと言われたとして、さてそれで私はどうしようというのか。途方に暮れてしまう。悟った人は悟ったことを言えばよいが、そうでない人には困ったことだというしかない。これを「解決」するどんな方法も多分ない。

医師から情報を与えられないのは困るが、情報を与えられて決定せよと迫られても、途方に暮れてしまうだろう。

100年に1度(あるいは1000年に1度)の自然災害に対して、どれほどの予防策を講じておくべきなのか。専門家から災害発生頻度の情報を与えられて決定を迫られても、困ってしまう。不確実性にどう対処すべきか、単なる多数決で決められないとすれば、どういうルールを定めれば良いのか。

ただ、制御されるものの範疇に入らないから無視してしまうこと、世界から排除してしまうこと、あるいは無理矢理に制御されるものの領域に押し込もうとすることはしない。このような態度が導かれる。例えば病院といった治す(直す)場である場にこの現実を封じ、治す(直す)ことを担当する者に委ねることによって、この「解決」できない事態を現実の表面から追い落としてしまうことをしないことである。

立岩が「解決」をどういう意味で使っているのかよく分からないが、病院や医師に委ねて済むような話ではない。「解決」というよりは、「社会的な合意」のあり方の問題のように思える。

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https://www.pakutaso.com/20160330090post-7449.html

*1:あえて偽大人という言葉を使ったが、バカ百科事典(chakuwiki)に、偽大人の特徴が挙げられている。私は特に「4.世間で今何が起きているのか良く分からない」大人の意味で使っている。専門バカ(井蛙)や学生の多くが、偽大人のように見える。もちろん、私は自分が「世間で今何が起きているのか良く分かっている」などとは思っていない。