浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

行動や構造に、意図や目的を読み込んでしまうのは、「擬人的な錯覚」ではないのか?

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(13)

今回は、第2章 生物学の成立構造 第1節 「物質と生命」という区分 の続き(p.75~)である。

身体構造の合目的性

鳥の翼が細部に至るまで精緻に組み上げられた構造を持っていることは、その鳥自身の意図や目的の外側にある。個々の鳥はそうした翼を持って生まれてくるのであって、自分の意図や目的に即して翼をこしらえるのではない。

鳥は、自らの意図や目的をもって、翼を設計し製作したのか? 普通には、鳥はそういう意図や目的を持っていないと考えられよう。

こうしたことから、身体構造についての説明や理解においては、その生物自身の視点を顧慮しなくてもよさそうに思える。それで実際、身体構造についての進化論的説明では、どのような構造を説明するべきものとして取り上げるかという点について、その生物自身の視点を忖度せずに、外在的な視点から見て目を引く構造を説明することになっている。例えば人間の眼の構造や、鳥の羽や翼、オスのクジャクの派手な尾羽などが、格好の説明対象として取り上げられてきたのだが、それはそれらが進化論学者の目を引く構造だからだ、というのが実情だと思われる。

目を引く構造を取り上げて、進化(環境適応)を説明するというやりかたに、私はいつも胡散臭さを感じていたのだが、山口は、注41で「進化論にはいかなる形質(生物の行動や身体構造)を説明すべきものとして取り上げるかということを規定する論理が存在していない」と述べている。ある身体構造が、ある視点からはメリットであり、別の視点からはデメリットであるだろうから、進化論学者はただ都合の良いように説明しているだけのように思えて仕方がない。多様な生物の存在と進化とはどういう関係にあるのだろうか?

しかし本来、身体構造の合目的性の理解についても、それを持つ生物自身の視点を無視してなしうるものではない。身体構造がいかに精緻なものであったとしても、もしそれが単に「自然に」形成される構造であるならば、その合目的性を論じることに意味はないからである。例えば、雪の結晶を顕微鏡で見れば、鳥の羽とわりあい似た形をしており、非常に微細で精緻な構造を持っているが、雪の結晶構造の合目的性を論じることは、神による創造が信じられた17、18世紀においてならいざしらず、現代においては無意味である。

山口は「生物自身の視点」と言うが、これはまだよくわからない。生物は視点を持ちうるのか?

身体構造が「自然に」形成されるのであれば、その合目的性を論じることに意味はない。つまり目的がない*1

私は、生物の身体構造は、雪の結晶構造と大同小異で、目的など無いのではないかと考えている。もっともこれは「生命」の定義の仕方によっては目的は有るとも言いうるので、私が「目的など無い」と言ったところで説得力はない。…あまり先走りしないようにしよう。

他方、羽の構造は、飛ぶという行動との関連においてその合目的性を論じることができる。そして、鳥の飛行が砲弾や風に舞う紙切れなどの物理的運動とは異質な「行動」だということの理解は、そうした行動をとる鳥自身の意図や目的を想定することによってこそ可能である。つまり、身体構造の合目的性は、その構造を用いて生物がなす行動との関連でこそ意味づけられるものなのである。

山口は「鳥の飛行が、風に舞う紙切れとは異質な「行動」だと理解することは、鳥自身の意図や目的を想定することによって可能になる」と言う。これは、人間から見て(外在的な視点から)、鳥の「運動」が「意図や目的を持った行動」に見えるということを言っていると思われる。このことをもって、鳥が「意図や目的」を持っているとは言えないだろう。

私は、「鳥の飛行」が「風に舞う紙切れ」とどれほど違うのだろうか、と疑問に思う。素粒子レベルまで思いを致せば、どう言えるかである。このとき素粒子の集合体をどうみるかがポイントになってくるような気がする。

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風媒花〜マツ by wisdom96 (https://wisdom96.exblog.jp/10391211/)

 

物理や化学の視点からすれば、「合目的性」という現象を設定するいわれはない。それゆえ、物理や化学の言葉で生命について説明しつくそうという現代生物学の努力が十全に成功したなら、説明すべき生命現象というものそのものが雲散霧消してしまうだろう。そもそもの出発点において見てとられていた「それ自身にとっての目的に対する合目的性」という生命の本質的側面が見失われてしまうということである。

物理や化学が「目的」を持ち込まないのは妥当だろう。さもなければ「宗教」(神学)になってしまう。だけれども、山口は、「生命の本質」に「目的」が関与しており、これを外しては「生命現象」の説明にはならない、と考えているようだ。

自然科学とは、外在的な視点から対象を観察し、それを実験的に操作することで理解するという営みであるから、「対象それ自身の視点」を含みこんだ形での理解を科学としていかにしてなすべきなのか、あるいは果たしてそれは可能なのかということは大きな問題である。

「対象それ自身の視点」とは、つまるところ「意識」の問題であるように思われる。生命に「意識」は存在するのか? それ以前に「生命」とは何なのか? …こういう問いかたをしていては、迷路にはまり込んでしまうような気もする。

今まで論じてきたような日常的な理解における生命の見てとり方にしても、人間の側が、ある現象において意図や目的を読み込んでしまうという擬人的な錯覚ではないのかと言われれば、そうではないと言い切ることは難しい。しかし、もし生命とは単なる物理的な現象に対する人間の側の擬人的な読み込みであって実在しないというなら、人間という生命の存在も錯覚だということになってしまうだろう。それはどう考えても受け入れがたい結論である。

私は、かなりの程度、「擬人的な錯覚」であろうと考えている。「生命とは単なる物理的な現象に対する人間の側の擬人的な読み込みである」と思う。だからといって、「実在しない」ことにはならないだろう。人間という生命の存在が錯覚だということにはならないだろう。

そしてこのように考えてくると、生命を理解することは、人間が自らを理解するということと相即不離だということが見えてくる。本書では、生命についての理解の構造を分析することで、それをなす人間の生命について分析し、翻ってそれが生命についての理解につながることを見ていきたい。

私は、生命の理解にとって、素粒子の集合体の振る舞い、「意識」の理解あるいは定義がポイントなような気がしている。

*1:神が形成したと信仰(盲信)している人は、目的は何だと説明するのだろうか?