浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

動物の行動は、「協力」によって特徴づけられている。人間は?

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(5)

今回は、第2章 競争は避けられないものなのだろうか 第3節 現実の自然状態 (p.32~) である。

競争と協力のどちらが優勢かを比較してみるために、まず自然界に目を向けてみることにしよう。…動物界の競争は、競争が人間の本性の一部をなしている決定的な証拠としてよく引き合いに出される。

競争は人間の本性である、それは動物の世界の生存競争の歴史を引き継いでいる、といったような話をよく聞く。生存競争とは、「ダーウィンの進化説の中心的概念。個体が次の世代を残すためによりよく環境に適応しようとし、生物どうし、特に同種の個体間で競争すること。適応できない個体は自然淘汰されて子孫を残さずに滅び、これが進化の要因であるとした」(デジタル大辞泉)。これはダーウィンの誤読なのかもしれないが、「生存競争の概念は、その後人間社会に再移入され、戦争、人種や階級の差別を合理化する、安易な社会ダーウィニズムを生み出した」(日本大百科全書)のは事実だろう。戦争、人種差別、階級差別合理化する(控えめに言って「避けられない」とする)「生存競争」の概念は、要注意(要警戒)の概念である。…動物の世界は、本当に「生存競争」が支配的な世界なのだろうか?

 

動物の世界は、次のようにイメージされることが多い。

強くて細心な二匹のオスが生死を賭けた戦いを繰り広げており、その傍らには素敵なメスがすまして座り込んでいる。大きな魚が小さな魚の背後に近づいてきて、あんぐりと口を開ける。獰猛なネコが優雅な物腰で、ちょっと足の遅い仲間を肉片にしてしまう。不名誉にも、負けてしまった動物たちはみな腐ってしまうままに放置されるのに勝ったほうは昼食に食らいつきながら、まさにカメラのむこうにいる。私はいつもこんなふうに思い描いてきたのだが、これこそが現実の自然状態なのである。ある春の日に森の中で見られる穏やかな静けさとはおおよそ異なって、すべてのものが、牙や爪にかかって血に染まっている。ゾウリムシからカバまで、動物と名がつくものはみな、まさにこの瞬間に、勝者と敗者にはっきりと別れていくのである。

勝者にのみ目を向け、敗者に目を向けない。血みどろの戦いに目を向ける。そしてこれが自然界だという。…テレビのスポーツ放映も似たようなところがある。

私は、ある意味では人道主義者であるために、このような自然界の記述にはがっかりしてしまうのだ*1。また別の意味でも人道主義者であるだけに、その記述の正確さには反論のしようもないのだ。もちろん、この描写に一片の真実も含まれていないというわけではない。テレビに映し出される場面は明らかに現実に起こっていることであり、私が目にしているのは、離れ業を演じる高給取りのオオカミなどでは決してない。けれども、世紀の転換期のころからある生物学者たちが指摘してきたように、動物の世界は、多くの人々が想像しているものとは違うのである。

動物の世界はどういうものか。公平にみなければならない。血みどろの戦いを好んで見る心性は、野蛮な人間であることの証明であるように思われる。

コーンは、「自然淘汰」について次のように述べている。

ある種が自らを取り巻く環境、特にその環境の変化に適応すればするほど、その種が将来的に生存していく確率がますます高くなるのだとこの理論[自然淘汰の理論]は主張する。適応すると言うのは、子供を産むことができるようになるということであり、子供を産むというのは、生存していけることだというわけだ。話にならないところも、決して少なくない。それなのに、生物学者や動物行動学者の中には、自然淘汰が競争とほぼ同義であるとするかなり粗雑な考えを長年にわたって唱え続けている者もいる。「適者生存」は、暗に闘争のことを指しているように思われる。勝者は、いつかまた訪れる戦いに備えて生きのびるというわけである。

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適者生存」は、どのように理解されているか。

適者生存(survival of the fittest)…生存競争で環境に最も適したものだけが生き残って子孫を残しうること。スペンサーの造語で、ダーウィンが「種の起源」で自然選択より的確な語であると述べた。(デジタル大辞泉

比喩的表現であって科学的な用語ではなく、生物学でこのメカニズムに対して用いられる語は「自然選択」である。…「適者生存」における「適者」とは、この造語の発明者であるスペンサーにおいては個体の生存闘争の結果であるのに対し、ダーウィン自然選択説では個体それぞれに生まれつき定められている適応力に重点が置かれる。(Wikipedia、適者生存)

スペンサーでは生存競争に打ち勝ったものが適者であり、ダーウィンでは子供をたくさん産んで子孫をふやすことができたものが適者である*2ということか。

スペンサー流「適者」の考え方が、かなり一般的なように思える。一流大学合格のための受験競争、一流企業や国家公務員になるための就職活動、国家資格を必要とする専門職になるための受験競争等々、競争に勝ち抜いた者を「適者」とみなす考え方が一般的であるように思える。

 

しかし、「実際には、自然淘汰と競争的な闘争には、必然的な関係は何もない」。コーンは、何人かの学者の説を紹介している。

自然淘汰による勝利が競争と等しいと言うのは、単なる文化的な偏見に過ぎない。……成功するというのは、より多くの成果を残すことだと定義づけるとすれば、……それは、相互扶助主義や共生も含めて、協力的と呼べるようなきわめて多様な戦略によって達成することができよう。自然淘汰について一般的に言うならば、競争的な行動にも、協力的な行動にもアプリオリに優先順位があるわけではないのだ。(S.J.ゴールド)

成果は、「協力」(相互扶助や共生を含む)によって達成することができる、ということは銘記しておいてよい。

自然淘汰には、闘争も含まれることもあるが、大抵はそうではない。しかも、闘争が生じる場合でも、自然淘汰に従うというよりも、それに抗って作用するのかもしれない。大抵の場合、様々な再生産に役立つのは平和的な営みであって、実際には、闘争の概念はあまり関係が無いのである。生態系へのより適切な統合、自然の均衡の維持、入手しうる食糧のより効率的な利用、もっと子供の世話をすること、再生産の妨げとなる集団内の不和(闘争)の排除、競争の的になっておらず、また他人があまり効率的に利用していない環境の可能性を切り開いていくことなどが、含まれることが多いのである。(G.G.シンプソン)

集団内の不和(闘争)は再生産の妨げになる、ということは銘記しておいてよい。

自然淘汰は、競争を求めるのではなく、逆に競争を抑えるのである。一般的に言えば、生存していくためには、それぞれの個人が互いに対抗しあうよりも、協働することが必要である。このことは、異なった種に属するものだけではなく、同じ種に属するものについても言える。このように言うことができ、自然淘汰が進化の原動力、いわば「自然」の中心的な問題なのだとすると、きわめて多くの動物たちが互いに協力しあっていると考えていいだろう。もちろん我々人間も協力し合っているのである。

コーンはこのように「自然淘汰が進化の原動力、いわば「自然」の中心的な問題なのだとすると…」と言っているが、これはよくわからない。自然淘汰が、自然の中心的な問題である、などとは思えない。自然淘汰とは関係なしに、「きわめて多くの動物たちが互いに協力しあっている」という事実があるのではないか。

 

次のクロポトキンの言葉は興味深い。

競争は、……動物たちの間では例外的な場合に限られる。より望ましい条件は、互いに助け合い、互いに支え合うことによって、競争が排除されることによって、もたらされるのである。……「競争してはならない。競争は、常に種を脅かすものであり、また競争を避けることができるような資源も十分にあるはずだ」。これが、自然の性向なのであり、常に完全に実現されることはないが、常に存在しているのである。これが、藪、森、川、海から受け取る合言葉なのである。「だからこそ、手を結びたまえ。相互扶助を実行せよ」。……これが、大自然が教えてくれることなのだ。(P.クロポトキン

競争は、常に種を脅かすものである、ということは銘記しておいてよい。

この競争、この「闘争」は、表面的なものであって本質的な相互依存の添え物にすぎない。自然にとって根本的な問題は、競争ではなく、協力である。協力は、隅々にまで浸透した上で、しかも完璧に統合されているために、バラバラに撚られた糸をほどき、ほぐしてみるのは難しいのである。(W.C.アリー)

自然にとって根本的な問題は、競争ではなく、協力である、ということは銘記しておいてよい。

ここでは、動物には競争を避ける傾向があるということだけでなく、その行動のほとんどがその反対のもの、すなわち協力によって特徴づけられているということなのだ、とこれらの著者たちが述べている点に注目しておきたい。

この点で、一つの疑問が出てくる。このような見方が正しいものであり、科学者共同体においてとても広く受け入れられているとするならば、またクロポトキンの著作がこんなに早い時期に書かれ、それが先駆的な業績だといまでも認められているとするならば、ホッブス*3やスペンサーが記述したものが広く受け入れられていることを、一体どのように説明したらいいのだろうか。協力し合っている自然という発想が、かなり多くの人々にとって驚きを与えてしまうのは何故なのだろうか。

コーンの疑問は、私の疑問でもある。

この答えは、次回に。

*1:コーンの言い方に倣えば、私は、戦い、競争、勝敗、駆引き、戦略・戦術、支配・被支配、権力、財力等々に焦点を合わせた報道のしかたには、いつもがっかりしている。

*2:2019/08/11 個体の行動の目的は、子孫を増やすことなのか? 参照。

*3:ホッブズは、自然状態において自然権を行使することにより、「人は人に対して狼となる」ので、自然状態は「万人の万人に対する戦い」の場にほかならないと考えた。(ブリタニカ国際大百科事典)