浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

ドローン戦争 - 戦争は会議室で起きている? (2) - 人生を知らない子どもたち

前回は、ドローンが、①私たちの生活に役立っているツールである、②私たちの生活を破壊しているツールである、という二面を見てきた。これは、まあ昔からある問題なのだが、誰かが根本的な解決策を提示しているのかどうか、私は寡聞にして知らない。そこで少し考えてみることにしたい。

まずは、「ドローン・オブ・ウォー」という映画(原題は、Good Kill)の予告編を、見ていこう。

映画『ドローン・オブ・ウォー』予告編

www.youtube.com

敵を殺すのはモニター超し!? これは……まるで……「テレビゲーム」のようだ…… 

f:id:shoyo3:20191007174906j:plain

https://eiga.com/movie/82364/special/

 

以下、映画.COMの「ドローン・オブ・ウォー : 特集」より引用。

  • 現代のテロ戦争は、モニター越しに、自宅から通える「戦場(勤務先)」で行われる。
  • 戦闘機に乗り込むのではなく、快適にエアコンが効いたコンテナ内のオペレーション室にこもり、モニター越しにドローンを操縦して攻撃を行う。それはまるでリアルなシューティング・ゲームのようだ。
  • 「もはや兵士が戦場に行かなくても、戦争は実行できる」という現実がある。
  • コンテナがある基地は戦地アフガニスタンからはるか彼方のアメリカ本国・ラスベガスに存在し、パイロットのトミーは毎日、愛する妻子と暮らす自宅からここに「通勤」して戦闘を繰り返しているのだ。
  • 「戦場」と「優しい家庭」との毎日の往復が心を蝕む。
  • 命じられる理不尽な作戦の数々にやがて彼は心を蝕まれ、(戦場に出ていないのに!)心的外傷後ストレス障害に悩むようになる。
  • 誰が爆撃のスイッチを押すのか。そんな人間はどこにいるのか。監督は米国内にあるドローン操縦用の施設と操縦士たちの実態を徹底的にリサーチしたが、ドローン空爆の真実はあまりに衝撃的すぎた。
  • たとえ戦争がテレビゲームだとしても、まだ操作する基地が戦地(アフガニスタン)にあるんだったらまだ理解できる。でも驚いた、そうじゃないのだ。基地があるのはアメリカのラスベガス。え!? 1万キロ以上も離れたところから無人機を操作しているのか!? そして、攻撃任務は定時が来たら別の人間と交代。車に乗って街を抜けて、妻子が待つマイホームへ……え! これって、毎日通勤している会社員と同じじゃないか!? 街を挟んで存在する「日常」と「非日常」。
  • 基地に新人を迎えるシーンがあって、その台詞でも驚かされた。「この中にはパイロット訓練施設ではなく、ゲームセンターでスカウトされた者もいるだろうが」……うろ覚えだけど、確かにそう言った。
  • 空を飛んでいる実感、人を殺している実感、一歩間違えば殺されてしまうという実感を持たないまま戦争をしていると、人間はどうなってしまうのか…。

 

ブログ「日々是〆〆吟味」に、以下のような*1「玉葱と金槌」の話があり(2019/5/2~5/14)、ドローン問題を考えるヒントになる。

  1. 金槌(X)は、釘を打つのに使われる(XA)。また人殺しにも使われる(XB)。
  2. 玉葱(Y)は、炒飯に使われる(YA)。またカレーにも使われる(YB)。
  3. いずれも、どちらか一方に使えば、(同時に)他方に使うことは出来ない。
  4. 金槌(X)を、釘を打つのに使う(XA)か、人殺しに使う(XB)かは、使用者(P)が決める。
  5. 玉葱(Y)を、炒飯に使う(YA)か、カレーに使う(YB)かは、使用者(Q)が決める。
  6. この選択は、形式的に同一であるとしても、重要度が違う。金槌の場合は、人の命が関わる選択であり、玉葱の場合は、人の命が関わる選択ではない。*2
  7. ゲームでは、金槌は、ゾンビを叩くために使われる(XC)。
  8. 金槌が、ゾンビを叩くために使われるか、人殺しに使われるかは、状況による。
  9. しかし、単に状況が許せば、人殺しをしてもいいとは言えない。
  10. 逆算して、人を殺すために、状況を設定する悪人がいるだろう。
  11. 金槌は、釘を打つのが正しい使い方であり、人殺しに使うのは正しい使い方ではない。
  12. 道具の正しい使い方というのは、製作者によって決められていて、それに外れると間違っているのかもしれない。[間違った使い方]
  13. 製作者は、金槌を釘を打つのに使うことを目的に製作している。使用者は人を殺すために使うことができる。金槌の使い方は、使用者に委ねられている。

この話で参考にしたいのは、赤字にした部分、製作者、使用者、状況、ゲーム、ゾンビである。

 

ドローンは、私たちの生活をよくするためにも、生活を破壊するためにも用いられる。飛行機(戦闘機、旅客機)、コンピュータ、監視カメラ、包丁、金槌、……。程度の差はあるが、どんなものにも二面性がある。

ではどのように使われるのかは、製作者が決めるのか、使用者が決めるのか。測量ドローンとか殺人ドローンといえば、既に使われ方が決まっている。使用者(=オペレータ)が決めるのではない。では、殺人ドローンを作った人(製作者)が、「どのように使われるのか」を「決めた」のであろうか。一つの殺人ドローン(無人航空機)を製造するのに、多くの部品が必要である。それらの部品が製造され、一箇所に集められ組み立てられるのに、どれほどの工程を経ているか。それらが企業の生産品だとするなら、当該企業が適切に経営されていて生産されるのである。科学技術のみならず、物流、商流、法制度などさまざまなものが関係してくる。だから一口に「製作者」といっても、誰を指すのかは、決して自明ではない。巨大な分業体制のもとに制作される。

「飛行機」があるとしよう。人を運ぶのか、爆弾を運ぶのか。人を運ぶという「目的」のために設計・製造されるならば、「旅客機」となる。人を殺すため、施設を破壊するためという「目的」のために設計・製造されるならば、「爆撃機」となる。使用者=パイロット=オペレーターは、使われ方を決めるのではない。「誰か」が、「人や物を運ぶ」、「人や物を破壊する」という「目的」を設定し、それに沿って、設計・製造されるのである。

では、「誰か」が「善い」(人や物を運ぶ)あるいは「悪い」(人や物を破壊する)のか、「設計・製造者」は、褒められることも責任を問われることもないのか。

「誰か」の話は後回しにして、爆撃部分の「設計・製造者」について考えてみよう。彼らは、ただ「命令」に従う「ロボット」(思考停止に陥った「凡庸な悪人」)なのだろうか。「自衛のためにやむを得ない」*3と正当化して、それ以上考えようとしない凡人なのか。爆撃が必要とされるような「状況」がどのようにして生じてきたのか、その状況は爆撃で改善されるのか、それ以外に改善のしようがないのか、を考えようとしない、考えてもわからない「設計・製造者」が、仕事をして生きていくためには、「自衛のためにやむを得ない」という言葉は、格好の免罪符となるのだろう。

誰か」が、「人や物を破壊する」という「目的」を設定し、それに沿って、「爆撃機」が設計・製造される。「誰か」とは、具体的に誰か? すぐに、独裁国家独裁者が思い浮かぶ。しかし、いわゆる「民主主義国家」の場合は、明白ではない。形式的には、主権者たる私たちである。私たちが、爆撃機を設計・製造することを決めた(予算を承認した)のである。私たちとは、「私」であり、「あなた」である。では「あなた」に問う。あなたは、人殺しの道具(爆弾や爆弾の発射装置など)を作ることに賛成なのか? あなたは、代理人(政治家)に決定権限を委任したというのなら、すべての責任は代理人にあると言うのか?  代理人が何をして何をしなかったのかチェックしているのか。

実質的に、主権者たる私たちが決めていないのだとしたら、誰が決めているのか。官僚(上層の国家公務員)なのか、資本家(軍事産業の経営者)なのか。軍産官学複合体なのか。私には実態はわからない。

表面的には、国家の軍事予算を決議している国会議員が、「人殺し」に使うものとして決めているのである。日常生活上は、「人殺し」などもってのほか考えられない、という同じ人が、よその国の人であれば、「人殺し」に平気なのである。私にはこの精神構造が「考えられない」のであるが、いったい何故なのだろうか*4

映画の中で、パイロットをゲームセンターからスカウトするという話があったという。「目的」(価値前提)に何らの疑問を抱くことなく、得点をあげればよいとするゲーマーは、良きロボットとなるだろう。彼らは、「人殺し」とは思っていないのだろう。何と思っているのかと言えば、「ゾンビ」(よそ者、邪悪な者)である。「人」ではなく「ゾンビ」。ゲームではなく、リアルにも「ゾンビ」であることの教育・宣伝活動が、「誰か」にとっての重要課題である。

営利企業に属している会社員も同様である。「会社の利益」という目的に何らの疑問を抱くことなく、得点(成績)をあげればよいとするゲーマーは、良きロボットとなるだろう。そういう目的に疑問を抱く者は、「危険人物」とみなされる。ただし、ソフィストケートされた企業は、あからさまな「会社の利益」を持ち出すことなく、「社会的貢献」を掲げる。「言葉」はある意味マジックだから、かくして優秀なロボットが誕生する。

 

以上は、誰もが思いつくことであり、何ら目新しいことを言ってはいない。じゃあ、どうするのか?

 

戦争は会議室で起きている?

タイトルの、「戦争は会議室で起きている」という言葉は、『アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場』予告編 にあった言葉である。これは、日本語編集者による、「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きてるんだ!」のもじりだろう。

「爆撃のスイッチを押す」という行為が戦争行為だとすると、オペレーション・ルーム(ドローン操縦用の施設)は、戦争が行われている場所(戦場)ではあるだろう。しかし、爆発の近くでスイッチを押そうが、遠くで押そうが、人を殺すためにスイッチを押すということに変わりはない。だから、戦争が会議室で起きていると言うのは、ほとんど意味のないことを言っている。(「事件が現場で起きている」と言うのは、責任者が会議室に閉じこもって、現場の状況を把握していないことを意味している。)

この映画では、1人の少女の命と、テロリストの自爆テロによる100人近くの命とどちらを優先するか、がテーマとなっているようだ。有名なトロッコ問題である。路面電車の問題よりはこちらのほうが現実的かもしれないが、恐らく1人の少女の命を犠牲にすることがマニュアル化されていると予想する。自国(自陣営)ファーストである。しかし、戦争はこんな選択の話ではない。「私たちの命を奪い、私たちの生活を破壊する」戦争がなぜ起こり、どうすべきかを問題提起しない戦争映画は、戦争映画ではない。

 

人生を知らない子どもたち

タイトルに、「人生を知らない子どもたち」という言葉を追加した。どういう意味か。私は、戦争とは「私たちの命を奪い、私たちの生活を破壊する」ものだと言った。リアルに、「包丁で、人を殺す」想像をしてみよ。あるいは「金槌で、頭をたたき割る」想像をしてみよ。鮮血がほとばしり、血がどくどくと流れだす。断末魔の叫び声をあげ、悶え苦しむ。テレビドラマでもこういう場面は放送しない。人を殺すとはこういうことであろう*5。「生活を破壊する」とは、自分の身体的な傷害や家族・恋人・友人の死亡・傷害などにより、これまで通りの生活が送れなくなる、あるいは将来の夢を絶たれることをいう。

いろいろ不満や不安はあるが、今の生活を少しでも良くしていきたいと思っている人は、「私たちの命を奪い、私たちの生活を破壊する」戦争はしたくないと考えるだろう。

しかし、いまの生活になんら希望を持てない、自分の居場所がない、人生に意味はないなどと思っている人は、年齢的に大人であろうと、「人生を知らない子どもたち」である。

ただし、「人生を知らない子どもたち」ではあっても、「人生を知ろうとする子どもたち」であれば希望はある。「人生を知ろうとする気もない子どもたち」は、自殺するか、テロリストになるか、戦争に参加する。「誰か」によって、戦争に参加させられる。いかがわしい宗教によりマインド・コントロールされた人を含めてもよい。 

 

「科学技術者の倫理」について書こうと思っていたのだが、話がそれてしまった。

*1:間違った要約であれば、指摘して下さい。

*2:「人の命は玉ねぎと同じ価値ではない」とあるが、「人の命」と比較すべきは、「カレー」または「炒飯」だと思います。

*3:「殺らなければ、殺られる」を、言い換えたもの。

*4:ひょっとして生物学的要因もあるのかもしれない。

*5:想像力不足でこれ位しか書けない。画像を貼り付けようかと思ったがやめておく。