浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

所有-処分-決定、稼げず金のない人は、病気になって死んでしまってもよい?

立岩真也『私的所有論』(24)

今回は、第4章 他者 第3節 自己決定 の第5項 「自己決定のための私的所有の否定」である。

立岩の言う「自己決定」とは、以下のようなものであると理解した。(2019/08/07 自分に関わることを自分で決めるなら、何も問題はないのだろうか? 参照)

  • 自己決定とは、「自分に関わること」を決めるのであり、「他者に関わること」を決めるのではない。
  • 他者は、「私が制御できないもの、私が制御しないもの」として在る。…他者の自己決定を尊重する。

自由主義者は、自己決定と私的所有を等置するという誤りを犯している、と立岩は言う。どういう意味か。

近代的な意味での所有権は、単に所持する権利ではなく処分権であるから、その限りで、「所有」と、あることをどのように扱うかという「決定」とは同じものである。だから「所有権」と「決定権」とは同じである。そして、自己決定とは自己が決定することであり、私的所有とは私が所有することである。だから、この限りでは、自己決定(権)と私的所有(権)とは同じである。

私は「あるもの」を所有している。それをどのように処分(売る、捨てる、壊す、改造する…)しようが自由である。どのように処分するかは、私が決定する。所有に処分の意味が含まれるならば、所有物を如何に処分するかは私の自由である。しかし、私の所有物でなければ、こういうわけにはいかない。これが自由主義者の考え方であろう。

自由主義者にとっては]自らの働きによって得たもの(あるいは贈与されたもの)だけがその人の決定の対象となる。

これは、「自らの働きによって、十分なだけを得られない者」つまり、「生きるための(そして自己決定するための)資源が十分でない者」にとっては、決定が妨げられるということである。これは明らかにまずい。だから、

私的所有権としての自己決定権を否定し、両者を切り離すことが必要になる。…自己決定の対象を自己が生産・制御する範囲内に限定する[という]主張を採用しないなら、決定のために各人が得ることのできる手段・資源の範囲はどのように設定されることになるのか。月並みだが、人並みに生きられるだけのもの(それは身体的等々の状況によって変わる)を、というのがひとまずの回答になる。…在ること、その一部としての決定を行うことのできるための資源を確保すること…それをどのように可能にするのかが主題になる。…その侵害が禁じられその擁護が義務である権利である限り、強制力を行使し得る政治領域の介在が要請され、その上でどのように一人ひとりの具体的な決定を具体的に実現していくべきかが考えるべきことになる。

「人並みに生きられるだけのもの」というのは明確ではないが、「在ること」という言葉からすれば、「健康で文化的な生活」のレベルが想定される(「健康で文化的な最低限度の生活」ではない)。政治の介入となれば、法制度化ということであり、「最低限度」が問題となろう。このような社会保障の考え方は、自由至上主義と相容れない。

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https://oneinvest.jp/shokuseikatsu/
 

今日主張される自己決定の主張は、古典的な私的所有の思想とどのように連続していて連続していないのか。

必ずしも判然としない。…ロックの末裔であるリバタリアン自由至上主義者]に繋がる流れは、その立場を貫こうとするなら、…稼げず金のない人は病気になって死んでしまってよい…と主張しなくてはならない。

 このように「貧乏人は、死んでよい」と、あからさまに主張する人はいない。だが、「医療」をめぐる言説に、このような主張が隠されているのではないか要注意である。(「高価な検査や治療を受けられなくてもやむを得ない」とか)

(生産・決定)能力がある・ないことと、その存在に生きる権利がある・ないこととは論理的に独立のことである。にも拘らず両者は繋げられる。とすると、この繋がらないものを繋げているのは、結局、資源の問題、負担の問題ではないかと考えることができる。決定を尊重したり、生かしたりしておくのは負担であるから、資源は有限だから、権利がないことにしようというのである。

ある人の「(私的所有を根拠とする)生産能力[労働能力]や決定能力」の有無と、その人が「人間にふさわしい生活、健康で文化的な生活」を営むこととは別個のことである。これを繋げているのは「有限の資源」の「配分」の問題だろう。

「医療資源」(医師、医薬品、医療施設等)は有限だから、有効配分しなければならない。恣意的な配分は排除しなければならないから、市場機構(価格メカニズム)による配分が望ましい、ということか。ここに、人間が存在すること・生きることをどう考えるのかの視点があるのかどうか。お金を持っていない者、従って決定できない者には、「医療資源」が配分されなくても仕方がないということか。

資源の有限性という主張は、一般的・抽象的にはその通りである。まず、自然界にある資源、人的な資源が有限であることは確かである。また、資源が効率的に配分される方がよいことを否定しない。同じものを生産するのなら、労力が少ない方が良い。負担が少ないほうが良い。働ける人がある割合でいないと働けない人も生きていくことができない。とすると、一定割合の働ける人を残すために、能力等を勘案した選別がなされることも極限的な状況では考えられる。しかしそれはあくまでも制約条件として働くのであり、生産能力の有無が、生存や生存のための資源の配分のあり方の優先順位を決めるわけではない。そして、今の状況、そして今後予想される状況は具体的にどのような状況であるのか。「少子化」「高齢化」「医療費の増大」という、事実といえば事実であることが、具体的であるようで非常にあいまいに、危機として語られ、脅迫として作用することを警戒すべきである。生産しない人を切り捨てなければならないほど、物的・人的資源が払底している、しつつあるという証拠はない

少子高齢化、医療費の増大という現実*1がある。高齢者は、生産しないにも関わらず、多額の医療費がかかる。そのため、このような高齢者を少なくするための方策が検討される。自己負担増とか在宅医療の推進とか…。生産しない高齢者(お金のない高齢者)に生きる権利はない、とリバタリアンは主張していることになるのだろう。

少子高齢化社会保障費の増大→消費税増税という短絡思考が、見方によっては「脅迫」として作用する。

生存させ、決定を認めるという面倒なことに他人が関わることは、どんな時代、どんな社会にあっても常に負担だったのだし、だから決定や生存を剥奪されてきた人たちがいたのであり、だからこそ権利、自己決定の権利が主張されたのである。ただ、近代という時代には、単に負担であるという事実があるのではなく――むしろ、「生産性の向上」に伴って負担の重さは減少しているはずだ――、単に負担であることを言うのではなく、負担しないことを正当化する言説があり、実践がある。

「決定や生存を剥奪されてきた人たちがいた」という歴史的事実をただ客観的に述べるか、何ら言及することなく無視するか、そういう事実はなかったと強弁するか。対するに「自己決定」を主張すれば、リバタリアンにならざるを得ないのか。

負担しないことを正当化する言説とはどういうものか。第6章で詳しく説明されるようだ。

*1:これがどの程度本当のことであるか、何が問題なのかは、データを見て判断しなければならないだろう。