アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(6)
今回は、第2章 競争は避けられないものなのだろうか 第3節 現実の自然状態 の続き(p.37~) である。
コーンの問いは、「動物の行動は、協力によって特徴づけられている。にもかかわらず、ホッブス[万人の万人に対する闘争]やスペンサー[適者生存]が記述したものが広く受け入れられていることを、一体どのように説明したらいいのだろうか?」というものであった。(2019/09/17 動物の行動は、「協力」によって特徴づけられている。人間は? 参照)
であった。
コーンはこれに答えている。
1.動物の行動のうち、「協力」は人目を引かない仕組みなので、見過ごされてしまう。
- 協力は、「すぐ目につくとは限らないけれども、競争の方は、……たやすく見てとれる」(C.アリー)
- 植物が酸素を表出し、動物が二酸化炭素を排出するのは、協力的な相互行為の原型といってもいいが、もっと高等な種の場合には、いっそうはっきりと意識的に行われる。
- しかしながら、これらのどれ一つをとっても、あまりテレビ映りがいいとは言えない。こうした人目を引かない仕組みなどは、簡単に見過ごされてしまうのである。
2.競争の二つの意味[適応と争闘]を混同している。
- 使用される言葉が漠然としている。…かつてはいくつもの種が生息していた一定の場所にたった一つの種しか残っていないとしたらそのふるい分けの過程を「競争」といっても良いが、…[これは]定義の問題である。[適応]
- けれども、競争の二つの意味、即ちすべての生き物にあてはまる、広いが、ほとんどありきたりの意味[適応]と、相手を打ち負かす為の意図的な試みを指す より狭い意味[争闘]とを混同すると、問題が生じてしまう。そうした混同は、ハーディンがそうしているように、人間の生活にとって競争が避けられないものであることを強調するために利用されてしまいかねない。
3.対象[動物の行動]を色眼鏡で見ている。
相手に勝ちたい(打ち負かしたい)という自らの欲望を、対象(動物の行動)に見出す(投影する)ことによって、人間は競争を避けられないと考えたいのであろう。(邪悪な神は、神を語る人々の「邪悪な心」を投影したものか。)
観察者たちはその対象に自らを投影させてしまう一般的な傾向がある。
相手に勝ちたい(打ち負かしたい)という自らの欲望を、対象(動物の行動)に見出す(投影する)ことによって、人間は競争を避けられないと考えたいのであろう。(邪悪な神は、神を語る人々の「邪悪な心」を投影したものか。)
https://en.wikipedia.org/wiki/George_Bouverie_Goddard#/media/File:George_Bouverie_Goddard04a.jpg
コーンは、「誤った結論を導くのによく用いられてきた巧妙な三段論法」といって、次のように述べている。
1 自然界は、本質的に競争的なものである(第一判断)。
2 人間は、競争的なものである(第二判断)。
3 したがって、人間の競争もまた、本質的なものである。
これはわかりにくい。次のように言うべきではないか。(「本質的」という言葉は紛らわしいので使わない)
1 自然界の動物の行動は、競争的なものである。(大前提)
2 人間は、自然界の動物に含まれる。(小前提)
3 ゆえに、人間の行動は、競争的なものである。(結論)
大前提を受け入れられるかどうか。
自然淘汰がまさに競争に突然変異し、さまざまな再生産が搾取に突然変異するのは、社会経済的な偏見に基づいて生物学の理論を作り上げようとする傾向を反映している。つまり、無意識のうちに、自然を自分たちになぞらえて理解しているのである。そしてこうした生物学の理論は、自然界が実際にどのようなものなのかについての説明を固定化して捉えているのであり、文化的な実践を正当化するために持ち出されるのである。つまり、意識的に自然を利用して、自らを正当化しようとしているのである。
「自然淘汰が、競争に突然変異する」とはどういう意味か。ダーウィンの進化論(自然淘汰)は、「環境に適応しているか否かが、生存と繁殖にかかわるということであって、目的や絶対軸ではない*1」(長谷川眞理子)らしいから、弱肉強食の生存競争ではない。しかし、自然淘汰(自然選択)は、次のように説明される。
自然選択…C.ダーウィンは、自然選択を生存競争の原理によって説明したので,生存競争による適者生存と自然選択とをほぼ同じ意味に使うこともある。(ブリタニカ国際大百科事典)
自然淘汰…C.ダーウィンは、生物は生きていける以上に多数の子をつくるため、子同士の間で生存競争が生じ、環境により適応した変異をもつ個体だけが生存して子孫を残すことを自然淘汰と呼び、これによって適応的な進化が起こると考えた。(知恵蔵)
自然選択…ダーウィンは、生物が多産であるが、その子孫の多くが繁殖に参加することなく死んでしまうことから、生存競争の存在を想定し、…生存競争において生き残り、子孫を残すのは、わずかでも生存に有利な変異をもった個体に違いないと考えた。(日本大百科全書)
ここでは、ダーウィンの言葉遣いを問題にしていない。自然淘汰(適応)が争闘(競争)の意味に用いられることが問題である。
「再生産が搾取に突然変異する」とはどういう意味か。マルクス主義の用語を排して言えば、企業活動(再生産)による付加価値の分配(給与、配当等)が公正ではない(搾取)ということになろう。
私たちは「経済社会」に生きている。だから、「社会経済的な現状認識(競争社会)」が無意識に作用する。だから、生物学の理論が、「社会経済的な偏見」により作り上げられる、と言われるのだろう。
そうして、自然界の動物の行動を「競争的」とみなすことによって、自らを正当化する。競争が避けられないものだとする。生物学的な根拠を持っていると主張される。
要は、三段論法の大前提が、認められるものではないということである。(なぜこのような大前提がおかれるのかは、コーンの3つの答えが示している)
われわれ人間が集団として生存していくことに関心を持つとすれば、それについて何かを示唆してくれるのは、結局のところは自然界なのかもしれない。その教訓とは、一般的にいって、生存していくためには、競争よりも協力の方がはるかに価値があるものだということである。ダーウィンが認識していたように、このことは、特に人間について言えるのである。
動物の行動における競争と協力、どちらか一方に決めつけるようなものではないだろう。
*1:ダーウィン進化論に生じる誤解 http://textview.jp/post/culture/21642