浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

自己決定と過剰医療

立岩真也『私的所有論』(25)

今回は、第4章 他者 第3節 自己決定 の第6項 「条件を問題にするということ」である。(テーマは「自己決定」であり、第1項から第5項の議論*1を思い起こそう。)

最初の部分は省略して、「医療の場」を例に議論を進めている箇所から見ていこう。

まず、問題を生じさせてしまう関係自体の問題性が消去され、権利を侵害する可能性を有する側の「良心」の問題として語られてしまうことの倒錯、この倒錯を倒錯としない倒錯をはっきりさせることである。供給者(医師等)はもっとよく利用者(患者)の要求を聞く良い供給者にならなければならないと言われる。間違ってはいないだろう。しかし、両者の利害は対立する。少なくとも対立しうることを前提にして考える必要がある。本節2でその要因の一端をごく簡単にだが述べた。

医者にかかった人ならわかるように、このような検査・治療・投薬が本当に必要なのだろうかと思うことがある。過剰な検査・治療・投薬ではないかとの疑いが残る。だが過剰かどうかは患者にはわからない。医者もわからないかもしれない。副作用もあるかもしれない。ある人が言っていた。「病院に行くと、病気になる」。

一方、さまざまな症状に見舞われるとき、何とかしてほしいと、医者や薬に頼る。少しでも良くなればと、治療や薬を所望する。一部の医者を除けば、大方の医者は良心的である(はずだ)。無駄な検査・治療・投薬をしないだろう。医師の「良心」に期待しよう(期待せざるをえない)。…それで良いのだろうか。

(教育や選抜のあり方等も背景とした)医療者個々人の資質に起因する部分があることを否定しないが、少なくとも問題はそこにだけあるのではない。良い人になればよいと言って解決しない。だから、問題が問題として現れている。にもかかわらず、供給者が良い供給者になることを期待する、供給者の良心に期待する、これも供給者にやってもらう、という主張の仕方には限界があるのに、この領域ではこのように語られてしまう。そして供給者サイドが語ってしまう機制が分析されるべきである。

立岩が「問題が問題として現れている」という問題とは何か。それは「過剰な」あるいは「無駄な」検査・治療・投薬ではないかと思われる。Wikipediaは次のように述べている。

過剰医療を招く原因には、医療機関への診療報酬を出来高払い制とし、かつ医療費が公的・民間医療保険により補償されるという事情が関係している。このような制度の下では、医師と患者は、医療費や受診を抑えるという動機は働かない。似たものに過剰治療があり、不必要な医学的介入(治療)を指す。過剰治療は、それを行っても症状にほとんど改善は現れない。また過剰診断とは、患者にとって症状がなく無害な状態に病名診断を下すことであり、これにより過剰治療がまねかれる。

2011年よりアメリカ合衆国では、不要であるばかりか有害でさえありえるような治療介入の一覧を示すChoosing Wisely(賢い選択)キャンペーンが始まったり、2013年のG8認知症サミットでは、イギリスが国家戦略として、死亡の増加につながる不要な抗精神病薬の使用を低減してきたことを報告し、日本でも、不要であるのに処方されている風邪薬を保険適用から外すことを検討するなど、無駄な医療への関心が集まっている。

過剰医療をまねく理由には、医師側の便益、患者側の希望、不適切な経済的要因、医療制度、ビジネス的の圧力、マスメディア、意識の欠如、防衛医療などが挙げられる。(Wikipedia、無駄な医療)

少子高齢化、医療費の増大 から短絡的に「保険料のアップ、自己負担割合のアップ」に持っていくのではなく、過剰医療をなくすることをまず考えなければならないだろう。このあたりの詳細は、別途考えることにしたい。

f:id:shoyo3:20191109145829j:plain

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20150402001110.html

医療という場では、価格メカニズムが有効に機能するのか。

お金のあるなしで生死が左右されてしまうことにもなりうる。それではまずいのだとして社会的に負担することにしても、価格差をどのようにシステムの中に組み込むか。公的保険制度の下で価格が統制されている医療の場では、価格メカニズムは不十分にしか働かせられない。改善策はあるにしても、質の違いに応じて価格差を設定することは難しいから、これだけを決定的な手段とするのは難しい。また、悪い商品は長期的には淘汰されていくとしても、それまでの間(例えば薬害によって)人が死ぬこともあるのだから、これも自由に委ねるというわけにはいかない。強制力を用いた監督・統制、利用者の権利を確保するための法律が必要とされる。ただ、個々のサービスの質といった微妙な部分については、一律の基準を作り強制力の行使を背景にそれを実行させることは難しいし、またそれが有効な手段であるとも必ずしも言えない。そこで強制力を伴わないガイドラインのようなものを作ったとしても、今度はそれだけで終わってしまう。

医療をめぐるさまざまな規制を緩和し、民営化を進める(市場の価格メカニズムに委ねる)ことは、「お金のあるなしで生死が左右されてしまう」ことになるだろう。では「悪い商品」を淘汰する、あるいは個々のサービスの質を評価する価格メカニズムは利用できないのか。

だが、利用者の側が実質的に供給者を選択できる条件があれば、強制力を介さなくても情報を引き出すことは不可能ではなく(情報の提供に応じないこと自体が否定的に評価され、客が減る結果になる)、その情報をもとに選択することによって、供給のあり方を変えていくことができる。そしてこれは、提供する商品の質に自信のある供給者にとっては悪い話ではない。強制力を背景とした規制、利用者による直接的な選択・制御を可能にする仕組み、これらを組み合わせて権利、自己決定権を保障することが課題になる

「利用者による直接的な選択・制御」といっても、(情報を引き出せたとしても)専門的情報の理解力の差は如何ともし難いようにも思われる。だとすると、「利用者の立場に立った評価機関」が必要になってくるのではなかろうか。

契約関係は日本社会には「なじまない」から、医者と患者の間の「信頼関係」が大切だといったことが言われる。「信頼関係」はきっと大切なものではあるだろう。しかし、良心や心構えでどうこうなるというものではない構造的な要因が絡んでいるからこそ、「患者の自己決定」や「インフォームド・コンセント」が主張されてきたのであり、それを無視するのはその意味を否定することでしかない。このことは文化の差等々とまずは独立に言いうることである。インフォームド・コンセント*2が「心がけ」として語られてしまうような「日本的変容」は否定される。

インフォームド・コンセントの難しさは、医師から選択を迫られても、根拠をもって判断できないということだろう。

また、患者の側が決定せず(できず)、医療者だけが決定の場に居合わせ、決定するしかない、そういう状況が確かに現実にはある。また自分[医師]が対応できない部分、直せない部分への対応を迫られてしまうこともある。だがこれにしても、そのような位置にその人がいてしまうこと自体が問題にされうる。良心的であるほど、その人は悩むのだが、しかしそこにしばしば欠けているのは、(少なくとも自分だけが「悩む義務」がないのと同時に)自分[医師]には「悩む権利」がないのだという当たり前のことの自覚である。悩む(悩んでしまうほど良心的である)ことと(過剰な)自尊はしばしば相伴って現れ、それが決定を他の人たちに渡そうとしないことにもつながってしまう。

医師に「悩む権利」がないというのは言い過ぎではないかと思う。患者の悩みを引き受け、共に悩む医師の良心は、みずからの決定を押しつけることはないだろう。(とはいえ、医師の良心にのみ期待して済む話ではない*3

供給者、例えば医療者が決定を左右する権利はどこにもない。どう決定すべきかわからない時、どう決定すべきかが問題である時、その人[医師]がなすべきことは、その決定についての決定を自らの外側に求めることである。また自分の技術で対応できない部分がある時なすべきことも、自らの外側にその困難を委ねること、少なくとも困難を引き受けるように要求することである。そして外側にいる人たち、私たちがしなくてはならないこと、せざるを得ないことは、その困難を引き受けることである。私たちが経済的・心理的負担を免れようとすることに対して、もっと私たちが、自分のこととして、関心を持つようにならなくてはならないと言われる。間違ってはいないだろう。しかしまず、関心を持たず考えずにすむように自体が構成されていること、病院や施設の中に閉じられていること、そして例えば病院が直す*4ための場であることによって、直らないことは不可視化されてしまい、実際には誰も対応していないことが問題にされなくてはならず、こうした場のあり方自体が変えられなくてはならない。

立岩は、医師の決定ではなく、(患者の決定ではなく)、私たちの決定に委ねるべきだと言っているようだ。ここで私たちの決定と言うのは、コミュニティ(共生社会)のルールとして定めるということに帰着すると思われる。それは、特定の病院や施設、医師に決定を一任することではない。

ルールを考えていくということは、具体的には「インフォームド・コンセント」や「医療情報の共有」等々のあり方・問題点を検討することになるだろうし、実際に検討されていると思う。(私はまだ不勉強でわかっていないのだが…)

*1:2019/8/7 自分に関わることを自分で決めるなら、何も問題はないのだろうか? 2019/9/12 「植物人間」や「乳幼児」はもとより、「偽大人」であっても、共生社会の一員である 2019/10/12 所有-処分-決定、稼げず金のない人は、病気になって死んでしまってもよい? 参照。

*2:インフォームド・コンセント…医師が患者に対して、治療を開始する前にこれから始める治療内容について、「なぜこの治療が必要なのか」「どのくらいの期間がかかるのか」「この治療をすることによる効果はどういったものか」「治療にかかる費用」等を、わかりやすく説明をし、その上で患者から同意を得ることを言う。(レーシック関連用語集について) 

*3:過剰医療をまねく理由には、医師側の便益、患者側の希望、不適切な経済的要因、医療制度、ビジネス的の圧力、マスメディア、意識の欠如、防衛医療などが挙げられる。(Wikipedia、無駄な医療)

*4:「直す」という言葉にひっかかった。…直すとは、良好な状態に改めること。もとの良好な状態に戻すこと。別の状態に変えること。誤りなどを訂正すること。治すとは、病気や怪我を治療すること。健康な状態にすることであるという(https://meaning.jp/posts/340)。病院は、治す場なのか、直す場なのか。