浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

微生物マットはいかなる機械であるか?

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(15)

今回は、第2章 生物学の成立構造 第2節 「生物学」の登場 である。山口は、前節(「物質と生命」という区分)では、生命をめぐる諸概念の成立構造を検討してきたが、本節では生命理解の歴史的な変遷(「生物学」というものが誕生した経緯やその前提となる発想)という観点から考えていくとしている。

 

微生物マット

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An aerial photo of microbial mats around the Grand Prismatic Spring of Yellowstone National Park/Jim Peaco, National Park Service

 

17世紀における機械論哲学の隆盛

「生命現象を物理学の言葉のみで説明すべきだ」という思想を明確に打ち出したのはデカルトである。彼はそうした思想に基づいて生物を機械との類比で理解しようとした。つまり彼は、現代生物学の大前提となる思想を提出したのである。

デカルトは…哲学者として名が通っているが、その著作の主題は現在の学問区分で言えば哲学、物理学、数学、心理学、生物学にまたがるような広大な範囲に及んでいる。デカルト自然界のあらゆる現象を説明するような統一的な理論体系を構築しようと試みたのである。例えば彼の『宇宙論』は、…すべてを物理学的な原理から説明しようとする強靭な還元主義的精神に貫かれた作品であると言えよう。

こうした著作の中で展開されたデカルトの思想をキャッチフレーズ的にまとめるなら、宇宙全体を自然法則に従って作動する機械であると見做す「機械論哲学」である。17世紀を通じて機械論哲学は広く受け入れられ、「この宇宙は精密な時計のようなものだ」といった見解が多くの学者たちによって語られた。

 「機械論」とはどういうものは、他の説明も見てみよう。

事象の生成変化について、時間的に先なるものと後なるものとの区別をたてた場合、先なるものが後なるものを決定し支配するというとらえ方と、逆に後なるものが先なるものを決定し支配するというとらえ方の二つがある。生成変化を必然的な因果関係としてみるとらえ方と、目的概念によるとらえ方である。機械論は、前者のとらえ方のもとに世界のすべての事象(精神的なものも含めて)の生成変化を理解しようとする哲学上の立場である。これに対して、後者のとらえ方で世界のすべてを理解しようとするのが目的論である。したがって機械論は目的論と対立する。(清水義夫、日本大百科全書

「後なるものが先なるものを決定し支配する」というとわかりにくいが、目的(目標)が現在の行動を規定するというのは日常的なことであるから、目的(目標)とする未来の状況(事態)を「後なるもの」と考えればよいだろう。このように、目的論と対比して機械論を理解するとわかりやすい…?

「自然(無生物)」は、目的なしに生成したのか、造物主が目的をもって創造したのか。「動植物」は、目的なしに生成したのか、造物主が目的をもって創造したのか。「人間」は目的なしに生成したのか、造物主が目的をもって創造したのか。

「宇宙」という言葉でどこまで含めるか。「自然」という言葉でどこまで含めるか。

 

当時、宇宙はものの喩えではなくまさしく機械であると考えられたのだが、そうした考えの背景には、神が宇宙を制作したというキリスト教の信仰がある。その点に目を瞑れば、自然現象を既知の物理法則のみによって説明しつくそうとする機械論哲学の発想は、現在の自然科学の発想につながるものである(あるいは逆に言うと、現在の自然科学の背景には、キリスト教的世界観が潜んでいるということである)。

自然現象を説明する現代の自然科学は、「目的」を排除しているだろう。とすると、「現在の自然科学の背景には、キリスト教的世界観が潜んでいる」とはどういう意味だろうか。キリスト教の信仰が隠れている??

デカルトによれば、人間を含む生物もまた、神が制作した機械である。現代に生物学では生物を「情報機械」として理解しようとするが、生物を機械とに類比で理解しようとする思想(生物機械説)の起源はデカルトにある。 

デカルトは、「生物(人間を含む)は、神が制作した機械である」と言っているのか。とすると、この生物機械は、神が何らかの目的をもって制作した機械ということか(目的のない機械は考えられない)。では何の根拠をもって神が制作したというのだろうか。神の目的は何だろうか。…何かよくわからないものに「神」という名を与え、そして名前を持ったが故に、実体と混同しているのではないか。(学者は決して「わからない」とは言わずに、抽象的な言葉を並べ立てる?)

 

アリストテレスによると、「霊魂」は、「栄養摂取、知覚、思考、運動などの原理」である。生物は無生物とは異なり、栄養を摂取して成長し、自分から動き、感覚を持つ。さらに人間という生物は理性的に思考することもできる。そうした生物の諸能力の原理として「霊魂」というものがあるとアリストテレスは考えた。植物の霊魂には栄養摂取の能力のみがあり、動物の霊魂にはそれ以外にも知覚や運動などの能力がある。こうしたアリストテレスの生命論は、ヨーロッパでは近代に至るまで大きな影響力を持っていた。

霊魂が「栄養摂取、知覚、思考、運動などの原理」であるならば、それは「神経機構」と言ってよいだろう。だとすると現代でも通用する考え方であるようにも思える。

デカルトは、霊魂を生命とは切り離して思惟する実体とし、デカルト以後の哲学では、霊魂を生命原理とみることは、哲学的には否定されてきている」(ブリタニカ国際大百科事典)という説明があるが、「デカルトは、神経機構を生命とは切り離して思惟する実体とし、デカルト以後の哲学では、神経機構を生命原理とみることは、哲学的には否定されてきている」と置き換えてみると、いささかおかしな説明に聞こえる。

それに対してデカルトは先の引用文[省略した]において、アリストテレス以来のアニミズム*1的な生命の説明を拒否し、生物の仕組みをすべて物理学の言葉で説明しつくすことができると宣言しているのだ。それゆえにこそ、『人間論』は『宇宙論』という著作の一部をなすものとして書かれたのである但しデカルトは、人間が持つ理性的能力については、通常の物体とは異なる「心」の持つ働きであると考えた。いわゆる「心身二元論」である。この思想は要するに、もともとは生物と無生物を区分するものとして持ち出された「霊魂(心)」を、人間とそれ以外の動物を区分するものとして作り変えたものと見ることができる。デカルトは存在の分割線を、生物と無生物の間にではなく、人間とそれ以外のものとの間に引いたということである

( )の部分に注目したい。①アリストテレスは、霊魂(心)を生物と無生物を区分するものとした。②デカルトは、霊魂(心)を人間とそれ以外の動物を区分するものとした。…霊魂(心)を神経機構とするなら、どちらかというと①が妥当かと思うが、それは神経機構をどう捉えるかの違いだろう。

生物についても物理学の言葉で説明すべしというデカルトの思想は、現在の生物学の思想とまったく重なるものではあるが、この章の冒頭の項で述べたように、「生きているもの」と「生きていないもの」が共に単なる物質であるというなら、両者を区別する根拠がなくなり、自然科学としては物理学だけがあれば良いということになってしまう。「生きていないもの」から区別された「生物」というものをことさらに研究対象とする「生物学」という科学が成立するためには、生物は無生物とは根本的に違う性質を持っているということが、明確に意識されなくてはならない。

神経機構(心)を物理学の言葉で説明できるか。もし説明できるなら、「生きているもの」と「生きていないもの」を区別する根拠がなくなるということか。神経機構(心)あるいは意識がいかにして成立したのか(そもそも成立しているのか)、私にはまだわからない。

もちろん、アリストテレスの『霊魂論』が「生きているもの」と「生きていないもの」とを区別しようとしたように、あるいは我々が日常的な直観として生物と無生物を一目で見分けるように、生物と無生物とは一見して根本的に違う性質を持っているように見える。それは外部からの入力がなくとも自ら運動し、感覚を持ち、成長する。

17世紀の機械論哲学は、こうした差異が実は見かけだけのものだと思いなし、すべてを一様で単調な力学的図式に塗り固めようとするものであった。この時代、科学としては物理学だけがあれば良いと、実際にそう考えられたのだということもできる。「生物学」が登場するためには、もう一度、生物と無生物との違いが関心を引く時代が来なくてはならない。すべてを物理学的に説明しようとする機械論哲学を経たうえで、生物と無生物の違いが関心を引いたときに初めて、その違いを、超自然的な「霊魂」などを持ち出さずに、科学的に説明しようという動機が芽生える。科学としての生物学は、こうした迂回路を経ることによってのみ登場しえたのである。

私は、生物と無生物との違いを理解していない。だから「科学としての生物学」が、その違いをどのように科学的に説明しているのか興味がある。

*1:アニミズム…霊魂(アニマ)にもとづいて生命を説明しようとする理論。