浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

「競争」は教え込まれたものではないか?

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(7)

今回は、第2章 競争は避けられないものなのだろうか 第4節 競争から学習するのか、それとも協力から学習するのか(p.40~) である。

本節のタイトルは意味不明である。「学習する」というが何を学習するのだろうか。

本節の問いは、「競争は教え込まれたものではないか?」という問いであるように思われる。

(1) 人間は、生まれながら備わっている性質のお陰で目標を必死に追い求めるのだが、他人と共に戦うこと協力)や他人と争うこと(競争)は、共に学習された行動形態である(メイ&ドゥーブ)。

(2) 人々は勝とうとか競争しようといった動機をもって生まれてくるわけではない。われわれ人間は、行動を行うための潜在的な能力をある程度受け継いでおり、誰でもみな生存本能を備えているのである。しかしながら、勝利への意志は、訓練を通じて、また家族や環境の影響によってもたらされる(トッコ&ブルンズ)。

(3) 競争は自然なものだが、競争にエネルギーを注ぎ込む社会的な役割を担う人為的なシステムによって不断に再生産される場合にのみ自然なものなのだという、アメリカ人の矛盾した信念(リースマン)。…まずもって競争するように、そして競争したくなるようにシステムのなかで社会化され、その後で、競争が避けられないものである証拠として、その結果が持ち出される。

(4) 競争が妥当なものであり、望ましいものであり、必要なものであり、また避けられないものだという教訓が、保育園から大学院まで吹き込まれていく。競争は、すべての授業の副教材になるのである。

(5) 過剰な競争社会においては、そのような訓練[他人はパートナーや友達ではなく、敵でありライバルである]を始めるのが早すぎるということはない。…「より素晴らしい幼稚園での激しい競争」に備えるための幼児向けの「予備プログラム」。

 (1)「他人と共に戦う」ことを「協力」というのはおかしい。自分が属する集団内にのみ「協力」がみられれば良いというものではない。集団間の「競争」(戦い)が問題である。

(2) 生存本能(生存競争)を「人間社会の競争」に結びつけるのは疑問だ*1。よりよく生きようとする「競争」があるとすれば、それは制度(システム)によってもたらされたものだろう。

(3) 競争が人為的なシステム(教育制度等)によってもたらされる。そして競争が再生産されることによって、競争が避けられないものだとされる。

(4) それは、保育園から大学院まですべての教育機関でみられる。

(5) 学歴信仰は弱まっているかもしれないが、「実力」(〇〇をなす能力)を巡る「競争」は弱まってはいない。その「競争」がいかに私たちを苦しめているか。

 

(6) 例えば、一年生の子供がいたとして、他の子供たちが笑顔のスタンプ「たいへんよくできました」というスタンプをもらっているのに、自分の宿題には笑顔のスタンプだけだったとしたら、傷ついてしまうだろう。こうしたランキングが、結果的には成績というかたちをとるのである。

(7) 教育における到達度は、あらかじめ想定された基本的な分類に従って測定されるのである。教育におけるほとんどすべての測定の社会的な背景をなしているのは、到達度という客観的な基準にてらして学生を評価するというよりも、まずはお互いを比較することによって評価する競技会のようなものなのである(ドイッチュ)。

(8) 授業が終わっても、学習は続けられていく。子供たちは、どんなゲームにも必ず勝者と敗者がいることを教え込まれる。…「誰が勝ったのかね」「僕たちは二人とも勝ったんだよ」「だけど、誰が一番勝ったんだい」。ここでピアジェは、幼い情報提供者から学ぶだけでなく、教育してもいるのである。

(9) 一部の親たちにとっては、教室や遊び場で競争するように教え込まれていくということが、絶えず心痛なの種なのである。他人と敵対するのではなく、他人と協力することを子どもたちに学ばせたいと望んでいる父親たちや母親たちは、自分たちが信じている価値観を植え付けようとするのがせいぜいである。何故なら、子供たちを社会から隔離して育てるわけにはいかないからである。全く解放されている親たちでさえ、教育について自分たちが最大の努力を傾けたものを台無しにしてしまう、家庭の外の巧妙にしつらえられた競争の構造と戦わなければならないのである。

(10) 我々は、とても幼いころから、無批判なままに必死になって競争を受け入れ続けている。競争や職場において競争するために、色々なものを詰め込まれていくのである。成長していくにつれて、家庭における社会化は、家庭の外における社会化と手を取り合いながら進められていくようになる。学校の成績、スポーツ、我々が参加するほとんどすべての行動においてたんに優秀であるというだけでなく、他人よりも優秀であることなど、親たちのプライドをかきたてるようなプレッシャーがかけられていく。

(6) 個人に「たいへんよくできました」というスタンプを押すことは、「協力」により何ごとかを成し遂げたことに対するスタンプではない。なぜランキングにこだわるのか。

(7) 何のための評価かがまず問われなければならない。評価基準が問題である。教育(学習)に関しては、「達成度」となろう。ランキングではない。…企業の人事評価に絶対評価相対評価というのがあるが、相対評価は従業員間の協力関係を弱める効果を持つといわれる。

(8)「誰が一番勝ったのか?」「誰が一位だったのか?」などと問うことは、「競争は避けられないもの」という意識が根底にあるように思われる。順位などどうでもよい、何を成し遂げたかが大事なはずだ。

(9) 私は「他人と敵対するのではなく、他人と協力することを子どもたちに学ばせたい」と望むが、「競争の構造」は堅固で揺るぎないもののようにみえる。「競争の構造」はいかにして成り立っているのか。

(10) 私たちのさまざまな不安・困難・苦難の根本的な要因の一つに「競争」があるのではないかと疑ってみること。学校の成績、職場の人事評価、順位(メダル)にこだわるスポーツ*2、他者と比較しての優越感・劣等感等々に、「協力」ではなく「競争」のイデオロギーが感じられる。

 

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(11) 家族は、家庭の外の世界における競争を助長し、支えるだけではなく、まさに自家製のブランドまで作り出してしまう。…伝統的な大家族よりも、欧米に見られる小規模な核家族のなかで育った子供たちに、より敵対的な反応が伺える。

(12) 競争という環境があってはじめて優秀な能力が培われるのだという考え方、つまり非競争的な経済システムにおいては勤労意欲などには目覚めないのだという考え方があり、それについていろいろな言い方をされるのをよく耳にする。

(13) 競争は避けられないものであるという信念は、古典的な自己実現の予言というかたちをとる。

(14) 協力の経験を積み重ねていけば、協力を増加させていく快適な螺旋構造をもたらしていくだろうが、競争を続けていけば、競争をますます強めていく危険な螺旋構造をもたらしていくだろう(ドイッチュ)。

(15) おおむね協力的な人々でも、競争的な人々と渡り合わなければならないということになると、競争的な人々に似てくる。…協力的な人々のほうは、競争的な人々もいるということを現実として認めているが、競争的な人々の方は、自分たち以外の人々も実際にはすべて競争的だと信じ込んでいる。こうして、競争的な人々は、他人もみんな自分たちと同じような指向性を持っているはずだという(誤った)考えを持っているとする、もう一つの自己実現的な予言にお目にかかる(ケリー&スタルスキー)。

(11) 子どもにとって、おじいちゃん・おばあちゃんの存在は、大きかった。核家族になり、「協力」が廃れ、「競争」が優位になったようにも思える。

(12)「競争という環境があってはじめて優秀な能力が培われる」などとは今や誰も考えないだろう。組織の活動においては、いかに協力体制を確保するかが課題である。

(13) 自己実現の予言…競争は避けられないものである(かもしれない)ので、競争的な態度・行動をとる。その結果、競争的な状況が生まれる。従い、競争は避けられないということになる。…ということか。

(14) 協力の好循環(快適な螺旋構造)、競争の悪循環(危険な螺旋構造)。

(15) 悪貨は良貨を駆逐する…現在では、通貨制度の変化やそもそもの語感の扱いやすさなども影響してか、もっぱら悪い物が蔓延るさまを例えた「憎まれっ子世に憚る」に似た比喩表現のようにして用いられている。例えば「安価な大衆商品の増加によって高品質の高級品が衰退する」「悪人が罰されずに増えれば馬鹿を見る正直者の善人は淘汰される」などといった意味合いを表現したりする時にこう言われ、その他には特定のコミュニティやジャンル自体の住人層や性質を非難する際に持ち出されたりもしている。(ニコニコ大百科

 

(16) 競争が人間性の一部をなしているのだともっとも精力的に論じている人々が、同時に競争に関して訓練を施していく過程を熱心に唱えている。

(17) キャンベルが、ある名もないイギリスの小学校を訪問した時のことについて報告している。この訪問に参加していた別のアメリカ人の教師が、子供たちに、誰が一番勉強ができるのかとたずねたのだが、子供たちのほうでは、「彼が何のことを言っているのか理解できなかった。子供たちは、そんなことを考えたこともなかったのだった。…その小学校には、落第も、成績も、試験も、優等もなかったのである。作文と絵は、ひとつ残らず壁にはられていた。子供たちは、落ちこぼれにされてしまうこともなく、自分を誇示することも、毎週「成績」を報告することも義務付けられてはいなかった」。

(18) 帰国すると、キャンベルは自分が担任しているクラスで競争意識を弱める課題に取り組んだ。…「子供たちは、教室に入ってきた大人や見ず知らずの人々に誰でも自由に語りかけ、手を引いて連れて行って自分たちが行おうとしているものを見せてくれ、自分たちが行っている活動について説明してくれたのです。そのときにはもう、恐れる素振りも、いぶかる様子もなく、また内向的になることもなかったのです。こうした態度の変化は、分類や等級づけの序列化をやめてしまったことによってもたらされたのです」(キャンベル)。

(19) はじめは競争を好んでいても、勝者も敗者も必要としない環境の中で学習したり、働いたり、遊んだりすることがどのようなものなのかを直に知るようになると、競争しようなどという気持ちを持ちたくなくなるものだという考え方は耳慣れないものだ。

(20) 子供が幼ければ幼いほど、我々の社会の競争の奔流の中で過ごしてきた時間は短いわけだし、従って協力して行うゲームを受け入れる意欲は旺盛である(オーリック)。 

 (16) 競争が人間性の一部をなしている(避けられない)のなら、訓練は不要だろう。

(17) 本当にこんな小学校があったのだろうか。現在はどうなっているのだろうか。卒業生はどういう人生を送っている(送った)のだろうか。

(18) キャンベルの描く子供たちは「理想的な」子供たちのように思える。だけれども、大人たちのほうが…。

(19)「勝者も敗者も必要としない環境」を実感できなければ、恐らくは理解されないだろう。しかし、まわりをよく見渡せば、「勝者も敗者も必要としない環境」が散見されるだろう。

(20)「協力して行うゲーム」を奨励せず、競争心を植え付ける教育とはいったい何なんだろうか。

*1:2019/10/18 自分たちになぞらえた自然(動物の行動)を利用して、自らを正当化する 参照。

*2:順位にこだわるオリンピック報道(スポーツ報道)にはうんざりさせられる。