浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

正義論-僕たちは世界を変えることができない?

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(1)

積読本の中から1冊抜き出したところで山は崩れないのだが、それでも駆け足で斜め読みすることはなく、ゆっくりと読んでいこう。

 

映画『僕たちは世界を変えることができない。 But we wanna build a school in cambodia.』(2011年)

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「正義論」は流行遅れの思想なのかもしれないが、私の読書ノートはそんな流行には関係ない。

第1章は、「正義論は可能か」であるが、この初出は『中央公論1984年10月号(原題「正義論序説」)である。

井上はまず「現在の文化状況」(1970年代から1980年代初めの時期か?)について、次のように述べている。

  • 現在の文化状況は、軽薄さが、軽やかさという積極的価値に転換されている。
  • この軽やかさは、権威のとりすました荘重さの裏に隠蔽されている愚劣さを暴く批判の武器としての性格を全く持たない。

当時の文化状況がどのようなものであったかは知らない。だけれども、「軽やか」にみえて、実は「軽薄」なのだということは、「さもありなん」という気がする。

現在の文化状況もどのようなものであるかは知らない。だけれども、根本的に(徹底的に)「ものごと」をみようとしない「軽薄さ」は、相変わらずというか、より「軽薄」になっているような気がする。

 

  • 空虚な重厚さよりも軽やかで奔放な充溢を求める者は、個人の自由の領域にパターナリスティックに干渉しようとする「道徳主義的(moralistic)」な説教を茶化す。

この文章を理解するには、「父権的干渉主義(パターナリズム、paternalism)」と「道徳主義(モラリズム、moralism)」について、若干の知識が必要である。

Wikipediaは、パターナリズムを「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう」としているが、本書は注(1)で以下のように述べている。

  • 父権的干渉主義は、被強制主体[弱い立場にある者]の即物的利益や「推定された合理的意志」を救済しようとする。
  • 道徳主義は、被強制主体を「道徳的堕落」から救済しようとする。
  • 父権的干渉主義も道徳主義も、被強制主体の「救済」を強制の正当化根拠にするという構造を有している。
  • 本書に言う「道徳主義」の基本的特質は、すべての道徳的価値は道徳的価値であるという理由だけで、公権力によるその認定と強行を正当化し得るとする発想にある。

ここはパターナリズムや道徳主義を論ずる場ではないが一言だけ。…パターナリズムについては、猥褻画像や動画からの青少年保護、薬物やゲーム依存症に対する救済がわかりやすい事例だろう。道徳主義については、公権力による愛国教育(例えば、オリンピック礼賛)や宗教(イデオロギー)強制が問題となろう。

 

井上は実にうまい言い方をしている。軽やかな人々にとっては、正義を論じるなどということは、「犯罪的な悪趣味」なのである。本書を読むということは「犯罪的な悪趣味」に耽るということであろう。

 

「正義」に対して嫌悪を抱くような感情がある。井上は、この感情の3つの要因を挙げている。

  1. 「正義よりも平和を」というスローガンに要約される発想。諦観的平和主義
  2. 正義に関するあらゆる思弁は、その本質において、支配階級のそれを代弁するイデオロギーに他ならない。階級利害還元論
  3. 何が正義であるかの判断は、客観的基礎を持たず、主観的・恣意的なものである。相対主義

この3つは、次節以降で詳しく説明される。