立岩真也『私的所有論』(27)
今回は、第4章 他者 第4節 技術について [3]私が私を作為することに対する他者の感覚 である。
立岩は、作為する(自分の身体に手を加える)ことの例として、スポーツでの筋肉増強剤の使用をあげている。これらは禁止されているが、それは競技者の健康を守るためだけではない。それだけなら、健康を損なわないような筋肉増強剤であれば問題ないということになる。
筋肉増強剤の使用禁止には、「身体能力は、鍛錬によって形成されるべきである」という考え方がある。
しかし、私たちは、身体能力の違いが、決して鍛錬の有無や鍛錬の程度の差によって決定されているものではないことを知っている。
「他の人よりも多く鍛錬すれば、他の人より身体能力が高まる」などと言えないことは、誰もが知っている。生まれつきの[遺伝的な]身体能力の差異は否定しがたい。そこで「何としても勝ちたい」という思いから、筋肉増強剤に手を出すという誘惑にかられる。
こうした行為は、「当該のスポーツを成立させているもの自体に違反している」からダメなのだろうか?
筋肉増強剤は、筋肉づくりのための食事やサプリメントとどう違うのだろうか。
Wikipediaは、ドーピング*1の禁止理由を4つあげている。[ ]内は、私のコメント。
- スポーツの価値を損う:ドーピングは、競技の楽しみや厳しさを奪い、結果としてスポーツの価値を損なうことになる。[スポーツの価値とは何だろうか。この説明ではよくわからない]
- フェアプレイの精神に反する:ドーピングは経済的な理由などで使える人が限られるため公平では無い。スポーツは統一したルールのもと、公平に競い合うことが前提である。[フェアプレイの精神とは何だろうか。経済的な理由で、筋肉増強剤などを使えない人には補助金などを与えて、公平さを確保すれば問題ないのだろうか]
- 健康を害する:ドーピングは、使用者の心身に悪影響を与える副作用が確認されており、競技者等の安全や健康を守るためにもドーピングは禁止されている。[健康を害さない薬物が開発されれば問題ないのだろうか]
- 反社会的行為である→社会や青少年に悪影響を及ぼす:選手がドーピングに手を染めていれば、ドーピングをよしとする風潮が蔓延してしまう。[反社会的行為であるとは、ルールとして定めたからには、何が何でもそのルールを守れということなのだろうか]
「身体能力は、鍛錬によって形成されるべきである」という考え方を支持するとして、健康を害することのない筋肉づくりのための食事・サプリメントや身体機能の回復・維持向上のための医薬品は、「鍛錬」に含まれるのか含まれないのか。
作られたものとそうでないもの、偽物と本物、両者の区別が曖昧になり、そしてオリジナルなものとそれが派生させるものという区別*2のもとに成り立っていた時代が終焉を迎えるといった類の言説がある。
作られたもの(筋肉増強剤)と、そうでないもの(筋肉づくりのための食事・サプリメント)との区別が曖昧になっている。
その見分けがつかないことはいくらもある。しかしこのことは区別に意味がないことを意味しない。作ったという事実は事実として存在する。少なくとも作った人はそれを知っている。そうでない人も、時に騙されることはあるにせよ、作ったこと、作らなかったことの二つのうち、事実はいずれかであることを知っている。だから、作られたものの精度が上がることによって、区別がなくなり、それはリアルなものとリアルでないものとを区画して成立してきた世界を崩壊させる、云々といった論の立て方には限界がある。
両者の区別の判定が難しくなったとしても、区別がなくなったわけではない。<白・グレー・黒>であるとき、グレーに着目し、区別が曖昧になったとしても、白・黒の区別がなくなるわけではない。どうしても区分しなければならないとすれば、この薬物は黒、この薬物は白と決めることである。その判定基準はやはり「健康」(副作用)にあると思われる。
本項の冒頭で、立岩は述べている。
私のあり方は、他者の期待や欲望やを私が受け取ることによって、それらに相関的に決まってくる。
私が私を作為する。その多くは、私の他者に対する現れを考慮してのことである。他者が高く買ってくれるから、また価格による評価がなされない場合でも高く評価してくれるから、作為する。
私(A)の高い身体能力を、他者(B)は評価する。だから私は、筋肉増強剤を使用する。
ここで言葉を言い換える。彼(A)の高い身体能力を、私たち(B)は評価する。だから彼は、筋肉増強剤を使用する。
しかし、すくなくともどれほどか、A[彼]がA[彼]自身を作為しないことをB[私たち]は願っている。A[彼]が何かを作り出したこと、あるいはA[彼]から何かが失われたこと自体に対してではない。むしろ、A[彼]が、B[私たち]を考慮して、B[私たち]のために、A[彼]自身を作りだしたこと、作り変えたこと、そうしたA[彼]のあり方をB[私たち]が受け入れられないということである。このように消極的な形で、B[私たち]は、つまり私たちは、A[彼]がA[彼]に手を触れないことを支持するのではないかと考える。
私たちは、彼が私たちを考慮して(私たちのメダル獲得の期待に応えて)筋肉増強剤を使用することを、私たちは(根拠を問うことなく、当然のこととして)認めない。
だから誰か権威者が、その基準を定めれば、「ルールに従え」ということになる。