浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「分類する」ということ

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(17)

今回は、第2章 生物学の成立構造 第2節 「生物学」の登場  の続き「生物の分類」である。(p.88~)

下の写真は、「ぼうずコンニャクのWEB寿司図鑑」よりピックアップしたものである(最後の2枚を除く)*1

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本書は、次のように述べている。

  • リンネ(1707-1778、博物学者)は、「分類学の父」と呼ばれる。
  • 彼の植物分類は、花のおしべとめしべの数によって分類するという甚だ人為的なものであった。
  • リンネの分類では、おしべの数を「綱」とし、その下位区分としてめしべの数を「目」とする。例えば、おしべ1本でめしべ2本のものは「第一綱第二目」とする。[雄は上位、雌は下位である]
  • 問題は、こうした人為的な分類体系では一見して全く異なる植物が同じ仲間に分類されてしまうということである。例えば、ビュフォン(1707-1788、博物学者)は「同じ綱の中に、…チューリップとニンジンとバラとイチゴと…が入ってしまう」とリンネの体系を口を極めて罵っている。
  • ビュフォンは、客観的な分類そのものの不可能性を主張する。自然物の分類とは、人為的ないし恣意的な分断にすぎない。
  • ビュフォンの分類では、人間にとって一番有用なものが第一位にきて、縁遠いものが後に置かれる。
  • ビュフォンは、生物種の範囲を「交配の可能な範囲」と定義してもいる。種をこのように定義するなら、人間にとっての有用性とは関わりなく、客観的に種の範囲を決めることができる。

おしべの数やめしべの数は、誰がみても変わることのない明確で客観的な基準ではなかろうか。これを否定的なニュアンスで「人為的」(恣意的)というのはどういう意味なのかよくわからない。

「こうした人為的な分類体系では一見して全く異なる植物が同じ仲間に分類されてしまう」というが、おしべとめしべという分類基準を用いれば、形態的に全く異なる植物が同じ仲間になるのは当然である。これが問題だというのであれば、「形態」を分類基準に立てれば良い。何を分類基準に立てるのが望ましいかを議論しようというならわかるが、自分の立てる基準が絶対的に正しいと前提して、他説を批判してもはじまらない。

客観的な分類は不可能か。それは「客観的」の意味次第である。「人間にとっての有用さ」というのも、立派な分類基準の一つである。これまた「有用さ」という言葉の意味が問題ではあるが、「恣意的」とは関係ないだろう。

 

生物の種の命名に「二名法」というのがある。の名を列記するものであり、リンネが提案した。(デジタル大辞泉

現在の生物の分類は、「ドメイン-界-門-綱-目-科-」とされているようだ。ヒトは「真核生物-動物界-脊索動物門-哺乳綱-サル目-ヒト科-ヒト属(Homo)-H. sapiens」である。(Wikipedia

 

Wikipediaに、生物の分類についての説明がある。

西洋の博物学の歴史のなかでは、どのような分類が正しいのかが検討され続けた。自然の仕組みを正しく理解することへの欲求がそれを推し進め、あるいは世界を創った神の意志を推し量るためでもあったと思われる。そのようななかから、生物の分類には何か唯一の正しいものがあると考えられるようになった。たとえば、クジラは魚介類ではあるが、実際には魚類ではなくほ乳類に分類すべきだと判断するのである。それを自然分類という。ここから、分類学は自然分類を探し求めることがその目的になった。その始まりがカール・フォン・リンネであった。

なお、どのような分け方が自然分類に当たるのかは最初は当然わからないわけで、既にある分類体系を検討し、個々の生物についての知識を増し、それをもってさらに体系を再検討することを繰り返してゆくことで、いつかは正しい自然分類にたどり着くと考える。当然、その途中の段階では自然分類ではない分類法が取られることになる。それは、その時点では分類に重要と考えられた特徴に基づいて分類されたものだが、後代からはこれを特定の特徴に引きずられ、誤った判断に基づく人為分類といわれることになる。(Wikipedia分類学

この説明では、何が自然分類で何が人為分類なのかよくわからない。「生物の分類には何か唯一の正しいものがある」と考えること自体がおかしい。何のために生物を分類しようとするのか。目的適合的に分類基準を立て分類すれば良いのではないか。それが複数あっても構わないだろう。人為分類、自然分類と区分けすること自体、意味のあることと思われない。

分類学は…古典的には形態が重視され、この点は現在でも変わらないが、生物に関する新しい技術や知見はすべて分類学に反映される。比較解剖学からは器官の構造が、発生学が進めば卵割様式や胚葉が、生化学が進めばアミノ酸の合成経路や脂肪酸の成分比、細胞学からは染色体が、分子遺伝学からはDNAの塩基配列が、いずれも分類学に利用され、そのたびに分類体系は見直しを受ける。(Wikipedia分類学

DNAの塩基配列による分類がもっともすぐれているように思われるかもしれないが、それはあくまで一つの見方にすぎない。形態による分類が古くなったというわけではない。

生態学など個々の生物種に関わる分野では、すべての始まりが分類学だと考えられている。彼らが扱う様々な生物が、いったい何という名であるかが確定しなければ、それに関して記録することすらできず、またその結果を他者のものと比較することもできないからである。いわば分類学は生物の戸籍づくりを期待されている。(Wikipedia分類学

「個々の生物種に関わる分野」だけではなく、ほとんどすべての分野において、その分野を理解することの始まりは「分ける」ことであろう。分けなければ(分類・分析する)何もわからない。

『世界は分けてもわからない』(福岡伸一)という本がある(私は読んでいない)。上に述べたことは「世界は分けなければわからない」ということである。福岡のこの本は、「世界は分けただけではわからない」ということを述べているのではないかと想像する。要素に還元して要素を理解しても全体はわからない。要素は単独で存在しているのではなく、全体あるいはネットワークの中で存在している。

 

冒頭の寿司の話だが、「WEB寿司図鑑」の寿司の分類は、次のとおりである。

  1. ネタの種類
  2. 寿司の分類…握り、軍艦巻、海苔巻、丼・ちらし、郷土ずし、なれずし、いずし、いなりずし、その他
  3. ネタの調理法…生、煮、焼き、炙り、蒸し、酢じめ、揚げ、その他
  4. ネタの分類…魚類、軟体、甲殻、その他生物、海藻・植物

大まかに言えば、1.は「」に相当し、4.は「」に相当するだろう。

エビ(海老・蝦)は、節足動物門-(汎甲殻類)-甲殻亜門-軟甲綱に属する。

エゾバフンウニ蝦夷馬糞海胆)は、棘皮動物門-ウニ綱に属する。

バカガイ(馬鹿貝)は、軟体動物門-二枚貝綱に属する。

アオリイカ(障泥烏賊)は、軟体動物門-頭足綱に属する。

ベジタブル寿司の中に、椎茸の握りがある。椎茸は、動物でも植物でもなく、菌界-担子菌門-菌じん綱に属する。(松茸は、菌界-担子菌門-真正担子菌綱に属する)

寿司を作ったり食べたりする分には、今見たような生物の分類はどうでもよい。しかし話のネタにはなる。

寿司を作ったり食べたり(選択する)する際には、3.の調理法が重要な区分になる。

寿司職人にとっては、生物学は何の役にも立たないだろう。寿司の消費者にとっても、生物学は何の役にも立たない。学問は実用的でなければならないということはないが、日常生活には何の関係もない。私たちの「世界」がどういうものであるのかに関心がある人にのみ「有用」であると言える。

 

「存在の大いなる連鎖」から「生物学」へ

  • 博物学は、鉱物と動植物とを等しく対象とするものだった。当時は鉱物から植物、動物、人間から天使に至るすべての自然物は連続的な序列をなしているという発想(存在の大いなる連鎖)が広くいきわたっていた。
  • 19世紀に入るとすぐ「生物学」が登場する。ラマルク(1744-1829、博物学者)は、生物が無生物とは根本的に違う性質を持っているということを明確に打ち出した。博物学の対象から、そのようにして規定された「生物」のみをピックアップすることで「生物学」が成立した。
  • なぜ、鉱物が脇によけられ、植物と動物がひとまとめにされたのか。その背景には生気論vitalismの思想がある。

鉱物と植物・動物を区分するものは何か? これは興味深い問いであるが、「生気論」は次項で説明される。

*1:

第1行…あこうの握り(きじはた)、エゾバフンウニの直づけ、本マグロ大トロじゃばら、江戸前青柳の握り(バカガイ)

第2行…ボタン海老、アオリイカの炙り、白甘鯛の昆布締め握り、イシガレイの縁側

第3行…印籠ずし、生しらす軍艦巻き、和牛炙り寿司、ベジタブル寿司