浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

「協力」は、「資源にゆとりがあるときにのみ許される贅沢」なのか?

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(9)

今回は、第2章 競争は避けられないものなのだろうか 第5節 異文化における生活 の続き(p.60~)である。

マーガレット・ミード(1901-78、文化人類学者)の言葉を再掲しておく。

この調査から得られる最も基本的な結論は、ある社会のそれぞれの成員の競争的な行動と協力的な行動は、社会全体において重んじられているものに条件づけられるということであり、またそれぞれの個人が目指す目標は、文化に規定されるのであって、文化的に無規定な、外的な状況に対する人間の反応によるものではないということである。

その後多くの異文化の調査研究がなされ、いくつかが概観されているが、「競争は、人間性の問題というよりも、社会構造の問題」ということである。

 

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コーンは、「これらの研究に照らしてみると、競争について広く受け入れられている説のうちいくつかのものが、疑わしいことが暴露されることになる」として3点あげている。

1.競争意識と達成されたものとの間には必然的な関係は何もない。この主張は個人のレベルにもあてはまる。

「達成されたもの」とは何か。ゴルニーは「芸術、科学、法律、その他の分野のものが結びついて完成されたもの」と定義している。競争とこれらのものとの間には、重要な関係はないということである。芸術や科学や法律などが、競争と関係はないことは明白であるように思われる。「より良いもの」を目指すということはあろうが、それは競争を前提しない。

2.競争は、強力な自我を発達させていく前提条件をなすものではない。

「強力な自我」とは、「心理的な健康を表す手短かな表現」らしい。容易に想像できるように、それは協力的な社会でも生じる。逆に、競争的な社会では、自己評価と健康に悪影響を及ぼす可能性が高いと考えられる。

3.協力は、「場所と時間[資源]にゆとりがあるときにのみ許される贅沢」なのではない。

「協力は贅沢である」というのは、「資源が希少であるとき、人々は競争的な行動に訴える」と同じことを言っている。ミードとその同僚たちは「豊かな経済をもった競争社会」と「貧しい経済をもった協力社会」という二つのタイプの反証例を見出している。

資源*1を巡る争いは確かにある。だけれども、仮に「資源が希少であるとき、人々は競争的な行動に訴える」のは、事実としてそうであったとしても、必然ではない。暴力的な争奪戦ではなく、価格メカニズムで解決しようというのは一つの方策だろう。しかし、価格メカニズムに委ねることで、何も問題は生じないのかは検討を要する。

ミードは指摘している。

ある社会の成員が財を求めて争うか、それとも協力して財を共有しようとするのかを決めるのは、求められている財が実際に供給されるかどうかによるのではない。そして、それぞれの成員が互いに協力し合うか、それとも互いに争うかを決定するのは、その社会の構造がどのように形成されたかによるのである。

「その社会の構造がどのように形成されたかによる」というのは、非常に抽象的でよくわからないところである。

希少資源は共有財産とし、財の使用を、協議の上、平等に割り当てるというのは検討すべき方策であると考える。これを字義通りに受け止めければ、そんなことは実現不可能だと一蹴されるかもしれないが、価格メカニズムの利用を含めれば、議論が可能であろう。現に、国有財産公有財産は多数あり、それらの管理、利用については法制化されている。

*1:石油資源は言うに及ばない。昨今では、レアメタルが注目されている。レアメタルとは、「ベースメタルや貴金属以外で、産業に利用されている非鉄金属」(Wikipedia)である。