久米郁男他『政治学』(28)、浦部法穂『全訂 憲法学教室』(1)
今回は、第10章 議会 第1節 議会の比較 の続きと、第2節 日本の国会 の予定だったが、ここで述べられていることを要約/引用する気になれない(一本筋の通った記述とは感じられない)ので、浦部法穂『全訂 憲法学教室』(第1版、2000年)*1の説明をみることにする。第7章 国民主権 第4節に「国会」(p.518~)、第5節に「内閣」(p.555~)がとりあげられているので、しばらくはこれによる。
(Wikipedia、日本の国会議員)
国会は国民の代表機関であるとか、国会議員は国民の代表者であるというとき、「代表」とはどういう意味であるか。
浦部は、2つの考え方があるという。
- 特定の地域や身分などそれぞれの選出母体を代表する。議員は、特定の地域や身分の利益に沿って活動しなければならない。(命令的委任と呼ぶ)
- 選出母体に関係なく、国民全体を代表する。議員の活動は、選挙人の意思から独立したものである。(自由委任と呼ぶ)
命令的委任とか自由委任*2とか言うよりも、選出母体を代表するとか国民全体を代表すると言ったほうがわかりやすい。
前近代の「身分制議会」から近代の「国民代表議会」への転換を考慮すれば、「自由委任」こそが近代議会の原則であると言えるかもしれない。(特定階層の利益→国民全体の利益)
しかし、この「自由委任」の原則は、実在する国民意思と代表者によって決定される「国民意思」とを完全に切断するものとして機能し、現実には民衆の政治参加を排除する「国民代表」制をもたらした。
今日における「国民主権」原理は、実際に存在する国民意思ができるかぎり正確に議会に反映されるべきことを要請する。とすると、実在する国民意思と代表者によって決定される「国民意思」とを切断するような形での「自由委任」は、むしろ否定されなければならない。
代表者によって決定される「国民意思」が、国民全体を考慮してのものであるとすれば、それは「実在する国民意思」に反するものであるとか、かけ離れたものであるなどとは言えない。現実には民衆の政治参加を排除するものであったとすれば、それは特定の階層のみの利益を考慮したものであり、国民全体を考慮する(代表する)ものであったとは言えない。だから、「切断」するものとして機能するとは言えないだろう。
国民各層の間の個別的利害は、最終的に国民全体の立場から調整されなければならないのであって、議員が個別的利害を代弁するのみで全体的見地からの意思決定をなしえないとものとするならば、議会が具体的な政策決定を行うことは不可能となる。
当然だろうと思う。
こうした観点からすれば、今日における「代表」は、一方で実際に存在する国民意思を可能な限り忠実に代弁するものであるあることを要すると共に、他方、個別的利害を離れて全体的見地から意思決定を行いうるものであることを要する。
「実際に存在する国民意思」が、「特定の地域や身分の利益」を図るものであるならば、そのようなものを「忠実に代弁する」必要はない。しかし「実際に存在する国民意思」が、「特定の地域や身分の利益」を図るものではなく、国民全体を考慮したものであるならば、それは「忠実に代弁する」必要があるだろう。例えば、核兵器廃絶、社会保障充実が、「特定の地域や身分の利益」を図ろうとするものではないことは明らかである、だがそれは「実際に存在する国民意思」であると言っても良いだろう。
だがしかし、「実際に存在する国民意思」のなかに、「特定の地域や身分[階層]の利益」を図ろうとする「意思」も存在するだろう。私は、議会が「特定の地域や身分[階層]の利益」の調整の場である(べきである)とは思わないが、現実にはそのような場になっているのかもしれない。