浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「我々のアイデンティティは、社会的な世界の関数である」は、何を含意するか?

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(10)

今回は、第2章 競争は避けられないものなのだろうか 第6節 不可避性をめぐる心理学の議論(p.65~)である。

コーンは、最初に「フロイト[1856-1939、精神科医]のモデルを受け入れる人は競争が避けがたいものだと考えるようになるだろう」と述べ、フロイトの見解を検討しているのだが、ここでは省略する。*1

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https://ideas.ted.com/its-not-politics-or-religion-separating-humans-from-each-other-its-shame/

 

競争が避けられないものだということに賛成するもう一つの議論がある。それは、社会心理学から導き出されるものであり、社会的な比較という現象に関心を寄せている、という。

  • 我々のアイデンティティは、社会的な世界の関数であり、すべての人間を定義づけるのは他人である。
  • 我々はいつでも、自分たちの行動や成果を周囲の人々の行動や成果と比較している。
  • 社会的な比較は、自分たちの行為がいいことなのかどうかを教えてくれる。
  • 比較は競争を意味している。相手を観察すれば、自然に相手よりもすぐれていたいと望むようになる。

「我々のアイデンティティは、社会的な世界の関数である」。なるほど、確かにそうだと思う。しかし、だからといって「すべての人間を定義づけるのは他人である」にはならない。「社会的な世界」を「他人」にのみ局限すべきではない。

私たちは、自分の行動や成果を、他の人々の行動や成果と「比較」しているかもしれない。しかし、その「比較」には大きな幅がある。漠然と他の人々の行動や成果を意識しているレベルから、厳密に(採点基準に従い)自他を採点するレベルまである。

社会的な比較は、自分たちの行為がいいことなのかどうかを教えてくれるわけではない。いいこと(善いこと、良いこと)なのかどうかは、判断基準による。比較というのは、何らかの基準により比較するのである。

比較は競争を意味しない。相手を観察しても、相手よりもすぐれていたいと望むようになるとは限らない(言えない)。

コーンは言う。「この議論は、耳障りも良く、これ見よがしなもっともらしさもあるため、ぜひとも反論しておかなければならない。この議論に説得力を持たせている単純明快さこそ、実は説得力を失わせてしまうものでもある」。

「我々のアイデンティティは、社会的な世界の関数であり…」などと議論を始められると、「耳障りも良く、これ見よがしなもっともらしさもある」ため、後に続く議論が正しいもののように錯覚させられる。「耳障りも良く、これ見よがしなもっともらしさもある」議論こそ、要注意である。クリティカル・シンキングが必要である。 

  • ライナー・マーテンスが述べているように、「自分の能力を評価するためには、少なくとも2つの要素、すなわち自分自身の行為他の何らかの基準とを比較してみる必要がある。……この基準には、もう一人の人間、ある集団、自分自身が過去に行った行為何らかの理想化された行為の遂行のレベルが含まれるだろう」。
  • 2つ目の要素が他の人物である必要がない。確かに、理想化された行為の遂行のレベルは、もともとは他人が行った行為から導き出されたものである。けれども、マーテンスが示した後の2つの基準はどちらも実際には競争として経験されるものではない。

自分の能力や行動や成果をどのように評価するのか。他人のそれとの比較であるとは限らない。他人のそれとの相対評価であるとは限らない。

自分の過去の(以前の)能力や行動や成果との比較かもしれない。自分の過去の(以前の)能力や行動や成果と比べて、より良くなっている、うまく出来ているとなれば、プラスの評価を与えられるだろう。また目標(何らかの理想化された行為の遂行のレベル)の達成度という評価がある。ある程度満足のいく達成度であれば、正当に評価すべきである。いずれも、他者とは関係ない。

  • 自分の能力とアイデンティティについての意識が社会的な比較によってもたらされてしまうと、人間性を正しく捉えることができなくなる。そうではなく、ある時点でどのような課題が遂行されるのか、またどのような文化のなかで生活しているのかが重要なのである。その人がどのような文化のなかで生活しているのかは、特に重要である。
  • 「競争的で、個人主義的な社会においては、……ある人の成功は別の人の失敗を表しており、自己評価には、社会的な比較がもろに顕になる。」ということを、心理学者のアルバート・バンデュラが観察している。このことは、競争的でも、個人主義的でもない社会には必ずしもあてはまらない。

自分の能力とアイデンティティについての意識が社会的な比較、すなわち「特定指標」(金儲けがうまいかどうか)、によってもたらされると、人間性を正しく捉えることができない。利己的で金儲けのうまい人が、その人の「高い人間性」を表すと考える人が、競争的で個人主義的な社会を支持するのであろう。自分が成功すれば(金儲けできれば)それで良く、他人が失敗しても知ったことではない(自業自得)と考える人が、競争社会を支持するのである。

*1:

現代の精神医学においては、フロイトの理論自体が高く評価されているとはいえない。その理由としては、嗜好性の強い独特の性的一元論に代表される、およそ通常の現代人の感覚にそぐわない違和感のある内容という事があげられる。性的一元論は、そもそも彼自身の心の病理からくるとする意見もあるが、当時のヴィクトリア朝時代の抑圧性の非常に強い時代にあっては、まさに紳士を自認する人間たちが性的な領域を否認することに、フロイトは欺瞞を感じたのだった。元々フロイトの診ていた患者は上流階級の女性が多く、性にまつわる情報を遮断された環境で育っていたという事情が指摘される。性理論の形成に関しては、当時の抑圧の強い時代において、フロイトがその観点の強調に革命的意味を持たせていたことを念頭に置く必要がある。また、例えば心的外傷(トラウマ)といった考えは、現代においても通用する。だが、性理論への偏向自体は、フロイト自身の政治的な立場から自身の主張を一つのものの見方に限ってしまうことになり、科学者としての彼の姿勢に非難があがる結果にもつながった。さらに、それ以後の精神分析や心理学の発展により、フロイトの主張とは異なる新たな見解や方法が生み出されてきた歴史的経緯もあるだろう。(Wikipediaジークムント・フロイト

私はフロイトの著作を読んだわけではないが、解説にみられる「嗜好性の強い独特の性的一元論」(例えば、エディプスコンプレックス)には、ついていけない感じがして、フロイトを読む気になれない。今日フロイトを信奉している人はいないだろうから、本書での言及を省略する。

ただ一つだけ。アンナ・フロイトジークムント・フロイトの娘、精神分析家)の言葉が引用されているので紹介しておこう。「若い頃だろうと、年を取ってからだろうと、人生において自己顕示欲、好奇心、攻撃、競争などを禁じてしまうと、個人の人格を同じように無力化してしまうような影響を及ぼすのである」。…現代においても、このような考えを持っている人は多数いるように思われる。