浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

「ルサンチマン」と評論しない

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(3)

井上は、「正義」に対して嫌悪を抱くような感情の3つの要因を挙げていた。

  1. 「正義よりも平和を」というスローガンに要約される発想。
  2. 正義に関するあらゆる思弁は、その本質において、支配階級のそれを代弁するイデオロギーに他ならない。
  3. 何が正義であるかの判断は、客観的基礎を持たず、主観的・恣意的なものである。

今回は、第1章 正義論は可能か 第3節「階級利害還元論」であるが、これは、上記2.に相当する。

階級」などという「死語」を使っているから古臭い議論であると決めつけないようにしよう(なお、本章の初出は1984年)。「階級」の代わりに「格差」(富裕層と貧困層、中心と周縁、インサイダーとアウトサイダー、男性と女性、正規と非正規、大企業と中小企業、等々)を念頭におけば良いだろう。本節で述べられていることは、階級社会(格差社会)の実態分析ではなく、議論の仕方の話である。

 

「正義に関するあらゆる思弁は、その本質において、支配階級のそれを代弁するイデオロギーに他ならない」と言って、「正義」に嫌悪を抱く者は、自らを「被支配階級」の側に置いている者であろう。

井上は言う。

正義についての我々の感じ方・考え方が、我々の「階級的」利害によって「規定」されているということが仮に真であるとしても、そのことを指摘することによって当の正義理論や正義感覚、いわんや正義理念全体を論破し得たと思うのは馬鹿げている。

これを「格差」の言葉で言い換えてみよう。

冒頭の第2の要因は、「市場経済社会が望ましい社会である(正義である)との主張は、富裕層のイデオロギーに他ならない」と言い換えられよう。しかし、「彼が市場経済社会(価格メカニズム)を支持するのは、彼が富裕層に属する(少なくとも貧困層ではない)からだよ」と指摘したところで、市場経済社会を批判したことにはならない。これは自明なことのように思えるが、意外と、「彼は富裕層に属するから、市場経済社会を支持するのだな」と短絡的に考えてしまう。これでは、市場経済社会を批判することにはならない。

井上は、累進課税制度の例をあげている。累進課税制度が「配分的正義」を具現するものとして支持する者に対して、「それは君が低所得階層に属しているからだよ」と指摘したところで、「配分的正義の原則そのものの不当性を示したことにはならない」のである。

市場経済社会(価格メカニズム)あるいは累進課税制度に反論しようとするなら、その「根拠」を示さなければならない。(何事かを主張するなら、その主張の根拠を示さなければならない、ということである)。

 

井上は、階級対立が止揚されて無階級社会になっても、資源や財の有限性を考慮すれば、分配問題を避けて通ることはできず、何らかの配分的正義の原則(例えば、「労働に応じて」)を採用せざるを得ないと言う。さらに、労働の負担の分配の問題、財の生産における有限資源の配分の問題、世代間の配分的正義の問題、経済計画の設定・執行のための社会的決定システムと参加権の問題、個人の自由の問題などがあり、「階級対立の消滅とともに解消されるような問題ではない」と言っている。

要するに、正義を階級イデオロギーとみなし、正義理念を必要としない無階級共同社会を夢見る人々も、この共同体における社会的協働のシステムと、そこにおける個人の位置を明確にしようとするならば、正義の問題に直面せざるを得ないのである。

階級対立が無くなれば、問題が無くなるというような単純な話ではない、というのはその通りだと思う。

とりわけ、「社会的協働のシステム」をどう構想し・構築するかは、最重要なポイントだろう。

 

格差の問題に引きつけて言えば、例えば、富裕層と貧困層の所得格差が縮小すればよいとか、非正規をなくしてすべて正規にすればよいとか、そのような表面的な(実現不可能であろう)主張をして済むような単純な話ではない。

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ルサンチマンあまの41号機 『青い靴下』https://twitter.com/ituitu_1126/status/1190207145196838912/photo/1

 

本節「階級利害還元論」を読んで、「ルサンチマン」という言葉が思い浮かんだ。

  • 弱者はその弱さゆえに強者に対する不満や憎悪をストレートに表出することができないために,内攻的にうっ積した不満や憎悪は,強者に対する怨恨ないし復讐願望となって意識下に抑圧されている。これがルサンチマンである。圧制的な支配者に対する大衆の行動や思想には,表面上いかに高貴な倫理性が標榜されていようとも,しばしばこの屈折した怨みの激情ないし復讐欲がこめられている。(世界大百科事典)
  • ニーチェキリスト教批判における中心概念で、「恨み」や「妬み」を意味する。『道徳の系譜』(1887年)において、ニーチェは、キリスト教の起源をユダヤ人のローマ人に対するルサンチマンに求め、キリスト教の本質はルサンチマンから生まれたゆがんだ価値評価にあるとした。被支配階級であるユダヤ人は、支配階級であるローマ人の力強さ、能動的に生を楽しむこと、自己肯定的であることに対して恨みや妬みを抱き、このルサンチマンから、強い者は「悪い」、強くない私は「善い」、という屈折した価値評価を作り出した。この価値の転換はさらに屈折の度合いを深め、「貧しき者こそ幸いなり」ということばに代表されるような、弱いこと、欲望を否定すること、現実の生を楽しまないことこそ「善い」とする価値評価が生まれ、最終的にキリスト教の原罪の考え方、禁欲主義、現世否定主義につながっていった、とニーチェは考えた。(石川伸晃、知恵蔵)
  • その社会心理学的な意味は、強者と弱者の社会関係、あるいは支配者と被支配者の社会関係のなかにそれを位置づけ、ルサンチマンを「強者への憎悪を満たそうとする弱者の復讐心が内向的に屈折している心理状態」としてとらえたときに浮かび上がってくる。…M・シェラーは、「革命」の本質を、少数の支配階級に対する多数者(大衆)のルサンチマンの結晶化とその発現によって説明しようとした。今日では、ルサンチマンの概念は定着したが、それを社会運動に直結させる考え方は、過度の心理主義的解釈として否定的に評価されている。(ルサンチマン日本大百科全書

この単純な二項対立(強者-弱者、支配者-被支配者)は理解しやすく、ルサンチマンは、ニーチェ*1の名とともによく知られるようになったようだ。「恨み」や「妬み」といった否定的な言葉で、キリスト教や社会運動を否定的に見る。その感情は無視しえないとしても、だからといってキリスト教や社会運動を否定する根拠にはならない。なおかつ、「支配階級であるローマ人の力強さ、能動的に生を楽しむこと、自己肯定的であること」が望ましいのだとしたら、強者とか弱者とか関係なく(「恨み」や「妬み」と関係なく)、そのようにあることを理性的に希求してもよいのではないか。

*1:私はニーチェを読んでいないので、その真意がどうであったかは知らない。