浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

COVID-19:ユヴァル・ノア・ハラリの論考(3)

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関するメモ(21)

今回は、「新型コロナウイルスで、死に対する私たちの態度は変わるだろうか? 否、じつはその正反対だ」 (2020/4/20 「ガーディアン」紙)(訳:柴田裕之)です。

ハラリは、「新型コロナウイルスパンデミック(世界的大流行)は、死に対する、より伝統的な態度や、死を受け容れる態度へと私たちを立ち返らせるのか、それとも、寿命を延ばそうとする私たちの試みを後押しするのか?」と問う。

  • 近代以降の世界を方向づけてきたのは、人間は死を出し抜き、打ち負かせるという信念だ。だがそれは、画期的な態度だった。人間は歴史の大半を通じて、おとなしく死を甘受してきた。近代後期まで、ほとんどの宗教とイデオロギーは、死を避けようのない運命としてばかりか、人生における意味の主要な源泉として捉えてきた。
  • 歴史の大半を通じて、最高の頭脳の持ち主たちは、死に意味を与えることにせっせと励み、死を打ち負かそうなどとはしなかった。
  • ギルガメシュ叙事詩オルフェウスとエウリュディケの神話、聖書、クルアーンヴェーダ、その他無数の聖典や物語は、苦悩する人間たちに辛抱強く説いた。私たちが死ぬのは、神、あるいは宇宙、はたまた母なる自然がそう定めたからであり、その運命を謙虚に潔く受け容れなくてはいけない、と。

「死」をどのように受容するかは、人それぞれである。私は「職業」を離れては、時代の如何を問わず、あまり変わりはないのではないかと感じている。(他者に対する発言は、それぞれの「立場」からの発言である)。

「神」、「宇宙」、「自然」…どの言葉を使うかによって、その意味するところが違ってくる。

 

  • ところがそこに、科学革命が起こった。科学者にとって、死は神の定めではなく、たんなる技術的問題にすぎない。心臓が血液を押し出さなくなったり、癌が肝臓を冒したり、ウイルスが肺で増殖したりしたためだ。心臓が血液を押し出さなくなるのは、心臓の筋肉に十分な酸素が到達しないから。肝臓に癌細胞が拡がるのは、偶然の遺伝子変異が起こったから。ウイルスが私の肺に入り込んだのは、バスで誰かがくしゃみをしたからだ。超自然的なところは何一つない。
  • そして、どの技術的問題にも技術的解決策があると科学は信じている。死を克服するためにはキリストの再臨を待つ必要はない。科学者たちが研究室でそれをやってのけられる。伝統的には、死は黒い衣をまとった聖職者や神学者の得意分野だったが、今では白衣を着た研究者が彼らに取って代わった

科学革命とは、「歴史学者ハーバート・バターフィールドが1949年に考案した時代区分の名称で、ニコラウス・コペルニクスヨハネス・ケプラーガリレオ・ガリレイアイザック・ニュートンらによる科学の大きな変革と、科学哲学上の変化を称する。しばしば「17世紀科学革命」と呼称される。*1」(Wikipedia

興味深いことに、コペルニクスキリスト教の司祭でもあった。彼の地動説は口コミで広まり、教皇の耳にまで届くが、当時の説の精度の低さからか、さして咎められはしなかった。コペルニクスは、ルターから徹底的な攻撃をうけたのだが、宗教戦争の時代にルター派の若者をかくまったそうである。コペルニクスは心優しき聖職者でもあった。コペルニクスは心から神を敬い、神がどのような宇宙を作ったかを知りたかった。そして、「宇宙はもっと美しいものであるはずだ」という考えから、宇宙に複雑な仮定が入り込むことを許せなかったのだ。…ガリレオは神の存在を疑うことなどまったくなかった。…ニュートンは、人間のことは信じられなかったが、無神論者を説得するほどに、創造主としての神のことは信じていた。…聖職者であると同時に物理学者であったルメートルは、教皇により「ルメートルらの発見は神の創造を科学的に証明したもの」で「ビッグバンはカトリックの公式の教義に矛盾しない」と認められている。(以上、仲野 徹、「一流の科学者が「神の存在」を信じるワケ」より)

以上からすれば、科学革命により、一気に「死は神の定めではなく、たんなる技術的問題」にすぎなくなったとは思えない。ただし、さすがに現代は一部の例外を除き、科学者は死を技術的問題として捉えているだろう(少なくとも公的には)。

 

  • 人間は、寿命を延ばすこの取り組みで、目覚ましい成果をあげてきた。平均寿命は過去200年間に、全世界では40年未満から72年へ、一部の先進国では80年超へと跳ね上がった。
  • 人間は命を守って寿命を延ばす試みで大成功を収めてきたので、私たちの世界観は根底から変わった。伝統的な宗教が死後の世界こそ意味の主な源泉であると考えていたのに対して、自由主義社会主義フェミニズムのように18世紀に生まれたイデオロギーは、死後の世界への関心をすべて失った。
  • ただし、相変わらず死に対して中心的役割を与えている現代のイデオロギーが一つだけある。ナショナリズムだ。ナショナリズムは情に訴えるときや切羽詰まってきたときには、国のために命を捧げる者は誰でも国民の集合的記憶の中で永遠に生き続けることを約束する

ナショナリズムに対する感覚は、ハラリがイスラエル在住のイスラエル人であることと無縁ではないように思われる。いまどき、国のために命を捧げようとする若者など世界にいるだろうか。

現代の戦争は基本的に経済戦争であり、武力による戦争は、徴兵制から傭兵の時代を経由して、デジタルを主要武器にした戦争に移行しているように思われる。

 

  • 今回のパンデミックで、死に対する人間の態度は変わるだろうか? おそらく、変わらない。まったくその逆だ。COVID-19のせいで、私たちは人命を守ろうと、なおさら努力するようになる可能性が高い
  • 中世ヨーロッパのような近代以前の社会で感染症が勃発したときには、人々はもちろん命の危険を感じ、愛する人の死に打ちのめされたが、主な反応は諦めだった。人々は、これは神の思し召しだ、あるいは、人類の罪に対する天罰だとでも自分に言い聞かせた。心配することはない、善良な人々は天国で報われる、と。
  • 今日の受け止め方は正反対だ。列車事故や高層ビルの火災、さらにはハリケーンといった何かの大惨事で大勢の人が亡くなるたびに、私たちはそれを、天罰や避けようのない自然災害ではなく、防ぎえた人災と見る傾向がある。21世紀には、大量死が発生すれば、当然のこととして訴訟と取り調べが後に続くようになった。
  • 疫病に対しても、私たちは同じ態度を取る。昨今ではたいてい、エイズエボラ出血熱などの近年の感染症の流行を、何らかの組織の失態と考える。そのような疫病を抑え込む知識と手段が人類にはあり、それでも感染症が手に負えなくなるようであれば、私たちはそれを、神の怒りではなく人間の無能のせいと見なす。

私は、今回のメディアの報道は、「諦め」でもなく「人災」でもなく、(意図せざる利害がからんだ)「煽り」ではなかったかと感じている。

私は、今回のパンデミックは「防ぎえた人災」であろうと思う。諸々の対策を「やむを得なかった」で済ますのではなく、「防ぎえた人災」と捉えるべきだと思う。医療だけの問題ではない。

 

  • 現代のヒーローは、死者を埋葬して惨事の言い訳をする聖職者ではなく、命を救ってくれる医療従事者であり、スーパーヒーローは研究室の科学者だ。研究室の面々がCOVID-19の効果的な治療法ばかりかワクチンさえも生み出してくれると、私たちは信じて疑わない。
  • ワクチンが現に使えるようになり、このパンデミックが終息したときに、人類が引き出すことになる最大の教訓は何だろうか? それは、以下のようなものであることに、ほぼ間違いない。
  • 人命を守るためになおさら注力する必要がある。私たちはもっと多くの病院と医師と看護師を必要としている。もっと多くの人工呼吸器や防護服や検査キットの備蓄が欠かせない。未知の病原体を研究し、斬新な治療法を開発するために、もっと多くの資金を投入するべきだ。二度と不意を衝かれることがあってはならない。

治療法やワクチンの開発、医療体制の問題だけではない。パンデミックの分析が必要である。高齢者施設の問題、格差の問題、人種問題、社会保障制度の問題、法制度の問題、生命倫理の問題、グローバル経済、WHO、国境…さまざまな問題が影響しあっている。

 

  • これは誤った教訓だ、今回の危機からは謙虚さを学ぶべきだ、と主張する人がいるかもしれない。人間の能力を過信して、自然の力を制圧できるなどと思い上がってはいけない、と。いつも否定的な見方をするこれらの人の多くは、今なお中世の考え方にしがみついており、謙遜を説きながら、自分たちは正しい答えのいっさいを知っていると、絶対の自信を持っている。
  • だが今日では、伝統宗教の権化のような組織や国の大半でさえもが、聖典よりも科学に信頼を置く。カトリック教会は、信徒たちに教会に来ないように指示している。イスラエルは、国内のユダヤ教の会堂を閉鎖した。イラン・イスラム共和国は、国民にモスクを訪れないよう呼びかけている。ありとあらゆる種類の寺院や教派が、公の儀式を中止している。そして、これはすべて、科学者たちが予測を行ない、こうした聖なる場所の閉鎖を推奨したからにほかならない。

 

宗教行事が感染拡大のリスクに

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https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200507/k10012419091000.html

一見、科学の勝利のように見えるが、伝統宗教は根強く生きのびていくのではなかろうか。(もっとも、どれほどの「信仰」があるのかわからないが…)

 

  • 私たちは現実的な期待を抱くべきであり、人生におけるどんな災難からも医師の力で守ってもらえるなどと根拠のない思い込みをしてはならないことには、科学者たちでさえ同意するだろう。
  • 現在必要とされているのは、バランスの取れたアプローチだ。感染症に対処するにあたっては科学を信頼するべきだが、自分は一時的な存在であり、必ず死ぬという事実に取り組む責務も、依然として担わなくてはならない。
  • 実際、目下の危機のおかげで、人間の命や業績が儚(はかな)いものであるという自覚が深まる人が多いかもしれない。それでもなお、全体として見れば、現代文明がその逆方向に進むことはほぼ確実だ。脆弱さを思い知らされた現代文明は、いっそう守りを固めるという反応を示すだろう。今回の危機が過ぎ去ったとき、大学の哲学科の予算が目立って増えるとは思えない。だが、メディカルスクールや医療制度の予算はきっと大幅に増えるだろう
  • 生の意義についてもっと考えるのは、私たち一人ひとりの仕事となる。医師は私たちのために、人間の存在にまつわる哲学的な謎を解き明かすことはできない。だが彼らは、私たちがそれに取り組むための時間を、あと少しばかり稼ぐことはできる。その時間で何をするかは、私たち次第なのだ。

今回のパンデミックを契機に、「生の意義」を考えようとする人は、稀有な存在であろう。

ハラリは「哲学的な謎」と言うが、医師はむろんのこと、哲学者であっても、「哲学の謎」を解明し得るとも思われない。哲学的な謎は、解明可能な形に分解しなければならない。(哲学を、「言葉遊び」や「趣味」にするのであれば、それも良かろうが…)。

*1:第2の意味としては、トマス・クーンの、いわゆる「パラダイム転換」一般を指す。(Wikipedia