浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

価値相対主義(狭義の相対主義)とは?

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(5)

今回は、第1章 正義論は可能か 第4節 相対主義 の続きである。

価値観の多様性(相対主義)を安易に認めてよいのか? 誰もが納得できる価値判断はあり得ないのか? これが私の問題意識である。

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https://www.adeccogroup.jp/power-of-work/016

 

井上は、相対主義を次のように分類していた。

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  • 経験的相対主義…人間の価値観・規範意識の事実上の多様性の観察を一般化し、時代・文化・民族・階級等の相違を超えて、普遍人類的に共有されている価値観・規範意識は存在しないという全称否定判断を行う。
  • 規範的相対主義…人間の価値観は画一的ではなく多様であるべきだ、という規範的主張をする。
  • 非普遍主義…あらゆる価値判断の妥当性が、歴史的・文化的・経済的条件など、ある意味で偶然的ではあるが、個人の意志によって自由自在に変えることのできない条件に依存しているとする。
  • 価値相対主義…いかなる価値判断も客観的妥当性を持ち得ず、相競合する価値判断のうちのいずれを選ぶかは原理上恣意的な問題であるとする。

井上は、価値相対主義について、「相対主義者を自認することは、「開明的」な自己イメージを提供してくれるため、現代日本においてはなお支配的な知的ファッションである」と述べていた。(以上、前回の記事参照)

価値相対主義をどう考えるか? 「その論拠の検討が必要である」として、①確証不可能性、②方法二元論、③非認識説 があげられている。今回は、①確証不可能性 についてである。

 

確証不可能性

  • 確証不可能性からの議論は、「与えられたある判断の真理性を確証する手続・方法が少なくとも原理上与えられていないならば、その判断は客観的に真ではあり得ない」という一つの認識論的前提(確証可能性テーゼ)に立脚している。
  • 一般に価値判断の真理性(あるいは妥当性)を合理的人間なら誰でも納得するような仕方で確証するのは困難である確証不可能性からの議論は、すべての価値判断が確証不可能であるとし、そこから、先の認識論的テーゼに基づいて、いかなる価値判断も客観的に真(妥当)ではあり得ないと結論する

価値判断の真理性に括弧書きで「あるいは妥当性」とある。この「妥当性」とはどういう意味か。デジタル大辞泉は、「妥当性とは、認識や価値や意味などが普遍的、必然的に是認される場合、それらがもつ性質である」と説明している。そこで「普遍妥当性」と「普遍」を補っておけば、文意に合うだろう。

ある価値判断が普遍的に妥当する(必然的に是認される)とは考え難いことである。そこで、ある価値判断が、普遍的に妥当するということを論証する手続・方法が(少なくとも原理的に)与えられていなければ、いかなる価値判断も普遍的に妥当するとは言えない、との主張は「もっとも」なようにも聞こえるが、井上はこれを批判する。

  • この議論に反論しようとする者は、次の二つの選択肢のうちのいずれかを選ばなければならない。
  1. 確証可能性テーゼを承認した上で、確証可能な価値判断が存在することを示すこと。
  2. 確証可能性テーゼそのものを否定すること。

井上は、確証可能性テーゼ(確証可能でなければ、客観的に真(妥当)ではあり得ない)には根本的な欠陥があるとして、(2)を選んでいる。

 

確証可能性テーゼの欠陥1

  • 確証可能性テーゼは、「客観的に真(妥当)であれば、確証可能である」というテーゼを含意する。従って、確証可能性テーゼの信奉者がもし何らかの価値判断の妥当性を確信しているならば、彼はその価値判断が確実性をも保証されている、あるいは保証されるはずであると必ず信じることになる。これは自己の価値観の独断的絶対化に導く。人をして独断家たらしめるのは確信の強さではなく、確信の「質」である。独断とは自己の判断の真理性を確信することではなく、自己の判断の確実性=不可謬性を確信することである。

「確証可能でなければ、客観的に真[普遍妥当]ではあり得ない」の対偶は、「客観的に真[普遍妥当]であれば、確証可能である」。 

「客観的に真[普遍妥当]であれば、確証可能である」は、「ある価値判断が普遍妥当性を有するならば、それは確かに実証されるだろう」と理解すればわかりやすい。しかしこれは同語反復であるように思われる。

井上が「確証可能性テーゼの信奉者がもし何らかの価値判断の[普遍]妥当性を確信しているならば…」と述べるとき、それは同語反復として「彼はその価値判断が確実性をも保証されている、あるいは保証されるはずであると必ず信じる」ことになる。

「ある人が何らかの価値判断の普遍妥当性を確信しているならば」というとき、それは(同語反復として)「自己の価値観の独断的絶対化」を意味するだろう。それは、「自己の判断の確実性=不可謬性を確信すること」とも言い換えられる。  

  • 確証可能性テーゼは真理性を確実性に還元することにより、真理の確信と独断との区別を廃棄する。このテーゼの受容者にとって、何かを確信するということはそれを独断的に信じることでしかあり得ない。相対主義の認識論的前提である確証可能性テーゼが、独断的絶対主義に導くということは何ら驚くにはあたらない。

価値相対主義は、「いかなる価値判断も客観的[普遍的]妥当性を持ち得ず、相競合する価値判断のうちのいずれを選ぶかは原理上恣意的な問題である」とされていた。ところで、「与えられたある判断の真理性を確証する手続・方法が少なくとも原理上与えられていないならば、その判断は客観的に真ではあり得ない」(確証可能性テーゼ)のだが、ある判断の真理性(普遍妥当性)を確証することは不可能なので(確証不可能、相競合する価値判断のうちのいずれを選ぶかは恣意的である、というのが価値相対主義であった。

井上は、「確証可能性テーゼは真理性を確実性に還元する」と言うが、そうだろうか。確証可能性テーゼが上に引用した限りの内容であれば、どうにも腑に落ちない。このテーゼに関係なく、「何かを確信するということはそれを独断的に信じることでしかあり得ない」と言うのはその通りだと思うが…。 

  • 相対主義と独断的絶対主義とは確実性というあまりに高い要求水準を人間の知に課する点で、本来同じ穴の貉なのである。この水準に達し得たと信じる楽天家が独断的絶対主義者に、達し得ないと断念したペシミスト相対主義になる。
  • 相対主義者は絶望した絶対主義者であると言われるとき、その意味するところはこの点にある。独断的絶対主義を排して、判断の真理性の確信とその可謬性の自覚とを両立させるためには、即ち、勝義における「仮説」の概念を確立するためには、我々は確証可能性テーゼを斥けなければならない。

ある価値判断が「客観的[普遍的]妥当性を持ち得た(持ち得る)」と確信した楽天家が「独断的絶対主義者」に、持ちえないと断念したペシミストが「相対主義者」になる、と言うのは、その通りだと思う。(それを言うのに、確証可能性テーゼを持ち出さなければならないのだろうか?)

独断的絶対主義を排して、価値判断の普遍妥当性を主張しうる場合があることを確信し、なおそれが普遍妥当性を有しないかもしれない(可謬性)ということを自覚しつつ、合意形成に進む途があるはずである。井上はそれを「仮説」の概念に見出しているようである(その意味するところは今後説明があるだろう)。

  

確証可能性テーゼの欠陥2(自己論駁性)

  • 確証可能性テーゼそれ自体はそれが要求しているような確証可能性を持たない。このテーゼは論争状況に対して超越的観点をとっているが、実はそれ自体が強い異論にさらされており、論争状況の直中に置かれているのである。
  • 特に、価値をめぐる論争の真摯な参加者たちは論争の主題について見解を異にしていても、確証可能性テーゼを否定する点では一致している。なぜなら、彼らはみな自己の見解が他の参加者に対して異論の余地を残さないような仕方で確証できないことを知りながら、なお自己の見解が真であると信じているからである。確証テーゼの支持者がかかる参加者に対して彼らの信念が誤りであることを確証できるような手続は存在しない。従って、このテーゼはまさにそれ自身の主張に従い、客観的に真ではあり得ない。

自己論駁性の批判に対しての反論が紹介されているが、これは省略する。

 

普遍的相対主義

  • 確証不可能性からの議論は確証不可能な判断が必ずしも価値判断に限らない(例えば、自然科学の法則命題は確証不可能である)以上、自然科学の理論なども含めて人間の判断・知識一般の主観性・恣意性を説くような、普遍的相対主義(破壊的懐疑論)の論拠とされるだけの射程を持っている。しかし、価値相対主義はこのような論拠だけではなく、価値判断の固有性に関わるような論拠も提供している。「方法二元論からの議論」と「非認識説からの議論」がそれである。

確証不可能性からの議論は、「普遍的相対主義(破壊的懐疑論)の論拠とされるだけの射程を持っている」と言われるが、その内容がわからないので、コメントしようがない。このあたりは「科学哲学」での話題となろう。

いずれにせよ、「確証不可能性からの議論」が、価値相対主義の論拠とされているという井上の説明は、私には「読解力不足」でよくわからないものであった。今後理解が進めば、書き直すことにしよう。