アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(13)
今回は、第3章 競争はより生産的なものなのだろうか-協働の報酬 の続きである。
いくつかの研究事例が紹介されているが、ここでは2つだけとりあげよう。
芸術的な創造性の問題
- 7歳から8歳の少女たちが「素朴な」コラージュをつくるように求められたとき、ある女の子は賞をとるために競争し、ある女の子はそうしなかった。そして7人の芸術家たちが、23のレベルそれぞれについて作品を評価した。結果は「賞をとろうとして競争した子供たちがつくったコラージュは、管理されているグループの子供たちがつくったものと比べても、あまりにも創造性のないものだった」。競争的な条件のもとにおかれた子供たちがつくった作品は、自発性に欠け、複雑なものではなく、変化の乏しいものだった。
これは「共同制作のコラージュ」だから言えるのかもしれない。「芸術」は通常、個人的なものであると認識されているのではなかろうか。
- ピアノにおける競争をテーマにした批評家のウィル・クラッチフィールドは、「競争がゆがんだものになってしまい、賞金がつりあがっていくにつれて、耐え忍びながらも次々と演奏をやり通していく感情的な根気強さは、ほんとうに聴くに耐えうる価値のあるショパンを5分間ひくための情緒的な感受性とは必ずしも両立しなくなる」としている。
- 勝利/敗北の枠組みでは、競争にもっとも適した気質の人々に勝利がもたらされるのである。これは、芸術的な才能とはまったく別のものであり、逆の方向に作用したのだと考えても構わない。
2015年のショパン国際ピアノ・コンクール(2020年度のコンクールは、新型コロナの影響で、2021年に延期された)で、第1位になったSeong-Jin Cho(チョ・ソンジン)の演奏を聴いてみよう。
Seong-Jin Cho – Piano Concerto in E minor, Op. 11 (final stage of the Chopin Competition 2015)
ショパンコンクール優勝者ではなく「チョ・ソンジン」として記憶されたい
クラッチフィールドの言葉は、微妙なところがあるように思える。あからさまに賞金や1位になることをめざしているようでは、クラッチフィールドの言葉通りだろうが、「情緒的な感受性」が評価(順位)の大きなポイントになっているならば、必ずしもそうは言えないように思う。
ジャーナリズムの競争的な構造
- ニュースを求める気違いじみた競争が、ジャーナリストたちのものすごい不安(それに付随する心理的な徴候)を生み出している。
- 予約購読と評価を追い求める報道機関の間の競い合いが、センセーショナリズム、いたずらに人目をひく写真、販売促進合戦といったかたちをとるのはありそうな話である。
- ジェイ・ウィンスティンは、27人の名前のとおった科学記者たちとのインタビューを含めて、科学記事の報道のあり方を徹底的に研究した結果、「ものすごく影響力のある報道に携わる科学記者たちは、<自分たちの記事を際立ったものに見せようとする競争が、取材内容を歪曲しようとする大きな動機をもたらしている>と断言している」と書いている。
昨今の新型コロナをめぐる「報道競争」が思い浮かぶ。
- 発表の場を求めて競争しなければならないために、正確な報道を期そうとするのではなく、記事を「誇張する」刺激が生み出され、記事が重要なものだと誇張されてしまうのである。ウィンスティンは、科学者・病院・大学に見られる世間の人々に受け入れてもらおうとする競争が、この傾向を補完しているのだと付け加えている。実際、報道が歪曲されているというのは、いろいろなことを総合して考えてみればはっきりする。
歪曲とまで言わずとも、誇張は常にある。これを、重要な点を強調するのだと言う。
競争的な構造により、客観的で正確な報道ではなく、大衆迎合の報道がなされる。大衆は、不幸や危機を好む(あるいは不幸や危機の報道は視聴率をとれる)という先入観があるようだ。メディアに招待される科学者・病院・大学関係者には偏りがあるとみておかなければならない。
- 大衆が獲得するのは、様々な報道機関が協力しあったならば得られたと思われるものよりも、結果的にはより少ない情報なのである。
政府寄りの報道と反政府寄りの報道がなされているので、バランスが取れていると思うかも知らないが、0-1ではない多様な見方があるということを忘れてはならない。
報道機関の協力というのは、ありえないことのようにも思えるが、限られたメンバーが同じ対象に集中するよりは、異なった対象に分担してあたるということがもっとあってもよいように思う。
- ジャーナリズムの競争的な構造が生み出しているのは、次のような状況である。すなわち、取材を差し控えるとか、少なくとも報道される記事の内容を熟慮し、事実をもう一度チェックするために時間を置くといった職業的な、倫理的な性向が、ライバルに出し抜かれてしまうかもしれないという恐れによって常に踏みにじられてしまうのである。
- こうした競争のプレッシャーは、結局のところだれの利益にもならないし、ほとんどすべての大衆にとってもそうなのである。同僚とともに協働するのではなく、同僚と敵対しながら働くのは、生産的というよりも破壊的なのである。
ここで赤字にしたところ、これは身近な問題について考えてみれば、誰もが納得できることではないかと思う。しかし、問題が少し大きくなったり、複雑になったり、抽象的になると、これを忘れてしまい、「偉い人」の言いなりになってしまう。