浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

さまざまな正義観と独断的な狂信家

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(8)

今回から、第2章 エゴイズム-倫理における個と普遍- に入る。

第1節 正義と不正(非対称性、理念・原則・感覚)
第2節 形式的正義の「内容」(権利と正義、匡正的正義、統合的当為)
第3節 正義とエゴイズム(チョコレートの争い、エゴイズムの問題)
第4節 ディケーの弁明(「正義は最善の政策」か、普遍化可能性、本質主義の彼岸)

といった内容である。こういったタイトルを見ると興味をそそられる。

本章の冒頭で、井上は「近年、正義論議が活発化している。いいことである。これに知的興奮を覚えるのは私一人ではない」と述べている。

ロールズが『正義論』(A Theory of Justice)という政治哲学の著作を著したのは1971年である。「公民権運動やベトナム戦争学生運動に特徴付けられるような社会正義に対する関心の高まりを背景とし、その後の社会についての構想や実践についての考察でしばしば参照されている」(Wikipedia)とされている有名な著作である。

NHKは、2010年4月~6月に『ハーバード白熱教室』(全12回)を放送し、日本で「正義論」が流行した(珍しい講義スタイルで人気)。これはハーバード大学の講義録の日本版で、サンデル(コミュニタリアン)がロールズを批判した内容になっている。

井上の本書は1986年の著作であるが、当然にロールズやサンデルが参照されている。

 

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https://www.ericschwartzman.com/racism-and-diversity-in-america/#.X8c8AM3TmUk

 

井上によれば、「正義」に関する問いは2つに区別される。(これは「正義」に限らず、「自由」とか「平等」とかに関する問いでも同様だろう)。

  1. 正義とは何か?…これは、正義概念(concept)あるいは正義理念(idea)を問うている。
  2. 何が正義か?…正義の基準としての正義原則(principle)が何であるかを問うている。

〇〇とは何か」という問いと「何が〇〇か」という問い、私は前者の問いは抽象的で決して合意の得られない問いではないかと考えている。他方、後者の問いは「○○は正義か XXは○○か」という問いであるとすると、具体的で合意の得られる問いであると思う。世の中は恐らく後者の問いで動いているだろう。

 

相対立する様々な正義(conceptions)は、2.の問いに関わり、様々な正義原則を解答として提示している。しかし、これら様々な正義観の提唱者はいずれも自己の主張を、人生観や法律観や国家観、さらには道徳観一般等と関連しつつも、それらと同一ではない正義観として提出している以上、彼らがそれぞれの正義原則によって、その基準を与えようと意図している共通の正義概念が存在するはずである。もし彼らが同一の概念について異なった基準を与えているのでなければ、そもそも彼らの間に対立は存在し得ない。

引用中、紫字は、井上が傍点を付している箇所である。

ここで言う「相対立する様々な正義観」とはどのようなものかは、以下の説明でわかりやすい。

正義観の次元では、平等主義vs自由主義、絶対的平等vs相対的平等、全体主義vs個人主義功利主義vs個人権理論、福祉vs自由、能力主義vs経歴主義、業績主義vs努力主義、「必要に応じて」vs「労働に応じて」、応報刑vs改善刑等々、様々な立場の対立がある。

これらの対立は根深く、妥当な正義原則について一般的合意は存在しないし、これからも成立する確実な見込みはない。どの正義観もそれを支持する一応の理由は持っているが、万人を納得させる決定的根拠を持たない。このような諸正義観の止むことなき角逐・対立は、絶対的な妥当性をもつ万能公式としての正義原則の存在について人々を懐疑的にする。一つの正義原則を絶対的な原理とみなし、これによってあらゆるものを裁く正義の徒を、人は独断的な狂信家として扱うようになる。「正義」なる言葉の現代における威信失墜と不評はこういう事態に根差している。

 様々な正義観がすべて「相対立する」かどうかは、議論の余地がある(二項対立ではないだろう)。一般的合意は存在せず、「万能公式としての正義原則」が存在しないとしても、合意に向けての努力は必要である。そのような努力を放棄し、「一つの正義原則を絶対的な原理とみなす者」は「独断的な狂信家」と言われてもしかたがない。正義観の例示のどれか一つを考えてみれば、「独断的な狂信家」がいかに多いか気づくだろう。すなわち「対話拒否」である。

しかし、絶対的な万能公式としての正義原則なるものへの懐疑は、正義概念自体を無意味として放棄することとは別である。またそれは正義に関するあらゆる判断を恣意的とみなす態度とも必ずしも結びつかない。各々の正義公式は、絶対的妥当性を承認されないとしても、少なくとも正義に関する実践的推論において考察さるべき一つの相対的理由、あるいは一応の理由を人々に指定することはできる。

絶対的妥当性をもたずとも、相対的妥当性をもつだろうことは容易に理解されるところである。即ち、検討されるべき視点・論点を提示しているだろう。だから、①②のような態度をとることは、誤りである。

それぞれの正義原則の他の原則に対する比重は固定的である必要はなく、問題の性格や文脈に応じて変化し得る。あるケースにはある原則が優越的な規制力を持ち、他のケースでは別の原則が優越するということもあろう。この場合、優越された原則も必ずしも「無」であったわけではなく、全く考慮されなかったときに比べて結論の内容または説得力に何ほどかの相違をもたらすことができる。

例えば、「全体主義vs個人主義」、社会保障という問題では「全体主義」(共助、公助)が優先されるだろうし、芸術行為においては「個人主義」(国家による芸術統制を排す)が優先されるだろう。

様々な正義原則の各ケースにおける比重を決定する確実な「計算手続(algorithm、アルゴリズム)」は知られていない。従って、同じ原則群を考慮した場合でも、人々の正義に関する実践的推論の結論が完全に一致することはない。しかし、それを理由にこのような判断を恣意的だとすることは[できない]。

競合する様々な正義原則の比重の評価は、何らかのアルゴリズムに従った演算によるというよりは、むしろ「正義感覚(sense)」とでも呼ぶべきものによる。この感覚は、それを持つ者に、正義に関わる全ての問題について一義的な指針を与えるには曖昧過ぎるが、多くの問題についてはっきりした態度決定をさせる程度には明確である。通常、人は自己の正義感覚を意識しないが、彼が「熱く」なるとき、即ち、自分が不正を受けたと感じた時や他人が受けた不正に義憤を感じた時、顔面の紅潮と共に意識に昇り来る一つの「抗議」として、この感覚の顕れ[現れ]を認めるのである。

アルゴリズム」とこの「正義感覚」、いずれか一方だけを信仰すると判断を誤る。正義感覚をベースとしながら、アルゴリズムを考えることが重要ではないだろうか。

人々が正義を疑う態度をとるとき、彼らの懐疑の対象は、実は個々の正義観であって、正義の理念ではない。人々は絶対的な万能公式としての正義原則なるものには絶望していても、正義の理念に絶望しているわけではない。彼らは個々の正義観を冷たく突き放すことができる。しかし、既に持ってしまっている正義感覚を、ある日突然意志的決定により放棄するというのは不可能である。正義感覚は失われうるが、棄てられ得ない。人々はいわば「負わされた」この正義感覚により、好むと好まざるとに関わらず、正義の理念に帰依している。そしれ「不正」を指弾するとき、彼らは正義の理念への信仰を告白するのである。

直截に言えば、「負わされた」とは「生得的」の意味ではないかと想像している。「私たちは、生まれながらに、正義感覚を持っている」。それは私のいまだ証明されざる仮説である。