立岩真也『私的所有論』(34)
今回は、第5章 線引き問題という問題 の第1節 自己決定能力は他者であることの条件ではない である。前回は「よくわからない」とだけ述べたので、今回は出直しである。
第5章の目次を見ておこう。
第1節 自己決定能力は他者であることの条件ではない
第2節 線はないが線は引かれる
第3節 人間/非人間という境界
第4節 はじまりという境界
本書の第1章で、各章で何が考察されるのかが述べられていた。本章で扱われるのは、
人間を特権的に扱う理由があるのかという問題、また、いつからヒトを人とするのか、すなわち殺してならない存在とするのかという問題、この場合に「誰が」決定するのかという問題、つまりは鬱しい[鬱陶しい?]「線引き」の問題を巡って考察する。ここでは、少なくとも「学問」の領域ではあまり語られることのなかった、その意味ではかなり怪しげなことを言う。(p.8)
立岩は本章の冒頭で、次のように述べていた。
どのような存在を奪ってはならないか、侵襲*1してはならないか、その範囲、境界の問題。全てが他者であり。他者の存在を認めるべきだと言うなら。それは全てのものを無差別に扱うべきであることを示すことになるではないか。…それは人間の特権化をどう考えるのか、いつからを人としての生とするかという「生命倫理学」の基本的な主題に答えようとするものである。(p.174)
自己決定能力は他者であることの条件ではない
本節で立岩が言わんとしているポイントは、以下のようなものである思われる。
- 私的所有権を擁護する者は、私的所有の原理を、私と同格な存在としての他者を尊重する原理であると言うだろう。他者に対する行為は、その者の同意がなければ許容されない。
- しかし、その者の意志・決定能力等によって「人格」が定義されるならば、「人格」と「他者」の範囲は同じではない。
- 他者を認めるのは、その者が何か、例えば「生命」を所有しているから、意識し制御するからではない。
- 私が持っているものは大抵他の誰かも持っている。本当に独自なものなどそうない。何か他者に積極的な契機があるから、他者を尊重するのではなく、ただ私と同じでないこと、もっと正確には私ではないこと、こうした消極的な契機によって、私たちは他であるものを尊重する。
- 即ち、その者が決定する(能力がある)ことに、他者が他者であること、人が人であることの根拠を求めない。決定(能力)は、その者が私ではない存在であることの一部である。その存在[私ではない存在]が「自己決定」する存在であることを要しない。
これは、「生まれてくる人、生まれたばかりの人、頭がうまい具合に働かない人・働かなくなった人…」(p.7)を想定すれば理解されよう。
それゆえ、「自己決定能力は他者であることの条件ではない」。
*1:侵襲…未受精卵の取り出しや受精卵の子宮への移植は、医療行為としての侵襲にあたり、医師は身体の維持・管理を行うことになる。