立岩真也『私的所有論』(35)
今回は、第5章 線引き問題という問題 の第2節 線はないが線は引かれる の第1項 線引きの不可能 である。
いつからヒトを人とするのか? ヒトと人の境界はどこにあるのか?
卵子や精子は「ヒト」か。受精卵は「ヒト」か。いつ「人」になるのか。
「人間」と「人間でないもの」の境界はどこにあるのか?
「人間でないもの」には、植物や(人間でない)動物が含まれるだろう。
植物や動物は「生物」である。細菌は「生物」である。ウイルスも「生物?」である。DNAレベルで考えたとき、これらは明確に区分されるものだろうか。どこまで共通で、どこから異なるのか。境界はどこにあるのか。
いま仮に、「人間」と「人間でないもの」を線引きしたとしよう。
「人間」は、「人間でないもの」を、処分、消去、侵犯、殺害してよいのだろうか。
逆に、「処分、消去、侵犯、殺害」してよいものが、「人間でないもの」とされるのだろうか。だとすると、「処分、消去、侵犯、殺害」してよい/よくない、の判断はどのようになされるのか。
何を滅ぼしてよいのかよくないのか。その「客観的」な基準はない。それは、まず第1には、これが「規範」をめぐることだからである。「科学的」な手段によって、あるものがある状態であるか否かを――例えば脳死状態であるか否かを――測定することができたとしても、それはひとまずそれだけのことであり、ある状態の発見やある基準に基づく測定の結果自体が基準を与えることは決してない。
「脳死だから臓器移植してよい」などと単純には言えないことは明らかだろう。脳死は、ある状態を「脳死」と定義している(と呼んでいる)のであり、それだけのことである。そこから何か別のこと(~してよい/~してはならない、規範)が導き出されるわけではない。
第2に、規範の設定一般の問題ではない問題がある。…私たちは何かを滅ぼしてはならない。滅ぼすことをためらうことがある。同時に、利用し殺して生きている。そして、他者であることを知りながら殺すという、かさなりの部分もある。
私たちは、「生き物」を殺す(=滅ぼす)ことに「ためらい」を感じる。
私たちの食べ物は、植物であり動物である。すなわち、人間以外の「生き物」を殺して生きている。しかし、普通このことを意識したり、「ためらい」を感じることはない。私たちの食べ物は、(誰かがどこかで殺した後の)「加工食品」だからであろう。
明らかにこれは、「人間中心主義」の考え方といえるだろう。
「殺してはならない」(滅ぼしてはならない)というのは、「不可能な倫理」である。
「殺してはならない」ということと、「殺さなければ生きていけない」ということは両立できるのか。
私たちは、利用し殺す存在でありながら、同時に利用し殺すことをためらう存在であることは事実である。事実であることはこのことを正当化しない。しかし、それ以外のものを置くことができないから、このことを前提するしかない。
この二者の間のどこかに何か絶対的な境界線が引かれうるのか。引くしかないとするとどうそれは引かれるのか。
立岩の問題意識はこのようなものであろう。
「ヒト」と「人」の境界だけではない。「人間」と「人間でないもの」の境界が問題である。