浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

現代国家と租税

神野直彦『財政学』(22)

今回は、第11章 租税原則 の続き(政府収入の多様化、p.149~)である。

 

私的所有権

市場経済が機能するには、市場で取引される生産要素や生産物に、私的所有権が設定されなければならない。

神が等しく人々に与え給うた土地という自然に、私的所有権を設定するには、政治システムが暴力を独占して、強制的に私的所有権を設定しなければならない。

「私的所有権」については、2019/04/10 エッケ・ホモ(この人を見よ)で、ふれている。再掲しよう。

市場社会を観察すると、人間の作った生産物だけを取引するのではなく、土地に代表される自然や、人間の活動そのものである労働をも、市場で取引している。…市場社会とは生産物市場ばかりでなく、土地、労働という本源的生産要素に、資本を加えた生産要素の生み出す要素サービスを取引する要素市場の存在する社会をいう。要素市場が成立するには、神が人間に等しく与えたもうた自然や、人間の活動そのものである労働という本源的生産要素に、私的所有権が設定されなければならない。それは政治システムが領有していた領地や領民が解放されて、土地や労働力が私有財産となることを意味する。例えば、農奴という身分からの解放が実施されなければ、労働を販売して、賃金という貨幣報酬を獲得することができず、無償労働を継続せざるを得ない。つまり、市場社会が成立するためには、被支配者が支配者になるという政治システムの民主化を前提にして、被支配者が生産要素に私的所有権を設定することが認められなければならないのである。(pp.23-24)

「神が等しく人々に与え給うた土地」つまり「誰のものでもないはずの土地」が、いかにして「私有地」(「ここは私の土地だ」、「ここは我々の土地だ」)になったのか?

土地(海や川を含む)からの果実、作物、魚、(食肉となる)鳥や獣、樹木、鉱物資源、居住の場等々、それらは市場以前に「縄張り」として、自・他の対立、集団の対立の焦点であり、現代も何ら変わるところがない。

そこで「取引」が行われるためには(市場経済が機能するためには)、「私的所有」が正しいものとして(権利として)認められなければならない。

これが「市場経済が機能するには、市場で取引される生産要素や生産物に、私的所有権が設定されなければならない」の意味だろう。ここで、当初の「縄張り」が妥当なものであるか否かをなぜ問題視しないのか。

なお、「政治システムが暴力を独占して」という言い回しには反発するむきもあるだろうから、「刑罰を伴う法をもって」と言い換えるべきだろう。「暴力」とは、「警察」と理解しておけばよい。今日の民主主義社会では、そのような「法」は私たち(社会の構成員)が定める。

租税とは

私的所有権を保護していくには、政治システムが社会秩序を維持していなければならない。政治システムが社会秩序を維持するには、政治システムが暴力の行使を独占するとともに、社会システムに公共サービスを供給して、社会システムから忠誠を調達する必要がある。このように社会秩序を維持して、私的所有権を保護する代償として、経済システムから租税を調達するのである。

<社会秩序の維持→公共サービスの供給→忠誠の調達→私的所有権を保護する代償としての租税>というのは、現代の民主主義社会(建前だけかもしれないが…)にふさわしい記述だとは思われない。

それよりは、Wikipediaの記述が適切と考えられる。

公共サービスの提供や公共投資である社会資本の整備は、国・地方自治体がそれぞれ分担して行っている。そのために必要な資金は、国民からの税金・社会保険料で賄うのが原則である。政府は、集めた税金を、公共の利益のために使う。道路・公園・ダムなどの社会資本の整備をしたり、警察・消防などの公共サービスを提供し治安を維持したり、生活保護・失業保険・公的年金などを提供し社会厚生を向上させたりしている政府が公共サービスを供給するためには、その財源を確保するため徴税を行う。(Wikipedia、公共サービス)

建前(理念)の話ではあるが、政府の役割は、上記のように「公共サービスの供給」=公共の利益のための活動である。そしてその財源確保のために徴税を行う。「私的所有権を保護する代償」とは考えられない。

問題は「公共の利益」のありかたである。それは、単に支出面だけではなく、収入面においても考慮されなければならない。

f:id:shoyo3:20210228180621j:plain

2020/12/21 毎日新聞https://mainichi.jp/articles/20201221/dde/001/010/025000c

 

歳入をもう少し細かく見ると、

f:id:shoyo3:20210228180652j:plain

https://www3.nhk.or.jp/news/special/yosan2021/

歳入総額は106兆6097億円で、うち所得税19兆円、法人税9兆円、消費税20兆円、公債44兆円である。

家産国家

現実の市場社会の政府は、必ずしも「無産国家」というわけではない。近代以前の政治システムは「家産国家」であり、生産要素を領有していた。それら「家産国家」の収入は、国王の御料地からの収入や営業収入によって成り立っていたのである。そうした「家産」が被支配者に解放されて、生産要素に私的所有権を認め、要素市場が成立すると、市場社会が出現し、政府も「無産国家」となる。

家産国家とは、

領土と人民を君主の所有物、戦争は私事、財政は私的収入とみなし、この基礎の上につくり上げられた国家。封建時代の領邦国家はこの例。国家機構は、君主家の拡大したものとしてつくられ、家産官僚は家事使用人、人民は土地に拘束された農奴となる。(百科事典マイペディア)

領邦国家から近代国家、現代国家への移行の詳細は、歴史に疎いのでよくわからない。

家産国家とか無産国家とか租税国家とかいう言葉は、経済的(財政的)観点からの言葉であるが、これを理解するために重要なことは何か。それは、「政府と国民」の関係性、より一般化して言えば、「(さまざまなレベルの)コミュニティと成員」の関係性であろう(現時点では、その詳細を述べるほどの知識がないのだが…)。

租税国家

政治システムが私的所有権を設定して、保護を加えている生産要素が生みだす所得が循環する過程から、強制的に貨幣を租税として調達する「租税国家」が出現する。この「租税国家」への動きは、19世紀初頭に見られた「規制緩和」と「民営化」の嵐の中で進行していく。つまり、重商主義的規制を廃止し、重商主義的特権会社を民営化していく政策が、熱狂的に実行された結果として、「租税国家」への動きが進展していったのである。

租税国家の別の説明を参照しよう。

封建制末期から資本主義初期へかけて、国家収入は封建的土地所有・特権に基づく収入、あるいは国王・領主の財産運用による収入に依存していた。こうした国家と個人、公と私の未分離な状態(これを有産国家という人もいる)に対して、これを分離し、私有財産制度のもとで生産された商品=貨幣から国家権力により徴収された租税をもって国家運営を図るのが租税国家であり、そこでは官業等の財産運営は否定される(無産国家)。したがって資本主義の自由主義段階における近代国家は租税国家にほかならず、これを古典派経済学の立場から確認したのがA・スミスであり、ドイツ財政学の立場から遅ればせに追認したのが租税国家観であったといえる。(一杉哲也、日本大百科全書

租税国家というのは、「資本主義の自由主義段階における近代国家」の財政に注目した言葉であると理解しておこう。「自由主義段階」と断るのは、現代国家では、福祉国家グローバリズムという言葉に示されるように、大きく変容していると考えられるからである。

公債国家

しかし、市場社会の政府も現実には、完全に「無産国家」になるわけでもないし、純粋な「租税国家」となるわけでもない。それどころか、19世紀後半から始まる現代システムの形成過程では、振り子は逆の方向へさえ振れていく。つまり、現代システムの政治システムが多機能化するとともに、政治システムが「有産国家」化していくことになる。そのため現実の市場社会の政府収入も、租税だけではなく、多様化することになる。

政府収入の多様化とは何か。

帝国主義段階においては公債収入・官業収入に依存する度合いが高まらざるをえず、負債者国家ないし公債国家に転化するであろうという財政社会学の洞察は的を射ていたといえよう。(一杉哲也、日本大百科全書

神野は政府収入として、租税の他、公共料金による収入、公有資産の賃貸収入や売却収入を考えているようである。「公債」も政府収入と考えることができるが、これについては後で述べられる。

帝国主義段階においては」という言い方に反発しないで、「現代国家では」と理解しておこう。