浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』(1)

最近(といっても、1~2年前)、BOOK-OFFでウロウロして、目についたのがこの本である。ジム・ホルトという名前は知らなかったが、タイトルにひかれた。本のタイトルは大事です。

ジム・ホルトはアメリカの哲学者/作家。

原題は、Why does the world exist ?

副題は、An Existential Detective Story (存在に関する推理小説

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なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

これが本書のテーマである、と訳者の寺町朋子は言っている。

これは哲学における有名な問いのひとつで、ドイツで活躍した知の巨人ライプニッツが1714年、明確に提起した。彼は何事にも原因があるとする原理、すなわち「充足理由律」を提示し、それをもとに「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と問いかけたのだ。この問題に対し、ライプニッツ自身は全知全能で完璧に善なる神を持ち出して一応の解答を出した。だが、後にこれに対する批判も続出し、ヒューム、カント、ショーペンハウアーベルクソンヴィトゲンシュタインなど、さまざまな哲学者がこの問題を論じてきた。(寺町朋子)

こういう紹介のしかたをすると、難解な哲学書かと思うが、そうではなさそうだ。

本書はいたってまじめなテーマを取り上げているが、記述はまじめ一辺倒ではなく、全体のトーンは重々しくない。過去の哲学者にまつわるトリヴィア的な話題や、インタビューに関連するエピソードも収められており、そのような個所が雰囲気を和ませる効果を発揮している。インタビューの相手に関する描写にはかなり遠慮のないものもあって驚くほどだが、思わず笑いを誘われる個所がいくつもあるに違いない。(寺町朋子)

中島義道は本書の解説を書いているが、その一部を引用する。

世界はぐらぐらした壮大な建築物であり、ある仕方で解体できるという見込みを得た。そして、ごく最近になって、世界が「ある」とは、言語(理性と言ってもいい)が作り上げた一つの壮大なお話だということが判明しつつある。

「ぐらぐらした壮大な建築物」とは、魅力的な表現である。しかも、それが「ある仕方で解体できる」という。中島の話も聞いてみたいところだが、いずれ。

本書は、難解な哲学議論を徹底的に避け、複雑な数式を一切使わず、普通の人が寝転がっても読めるように仕立て上げられている。

そうであれば、途中で本書を投げ出すこともないだろう。とはいえ、はじめのうち、物理学的/数学的説明に終始しているそうなので、疑問を詮索していたら深みにはまってしまうので、軽く読み飛ばすようにしよう。

宇宙論、単純性の原理、普遍性の原理、自己包括的な原理、などこれらの議論を詳細に記述すると超難解であろうが、実はそのすべてが西洋哲学を貫いている単純な「思想」である。それは、(1)宇宙は合理的にできているに違いないという前提であり、その合理性を、(2)われわれ人間の思考によって解明できるという前提が裏打ちしている。

本書は、あらゆる難解な哲学書に対して胡散臭さを覚え、しかも知的好奇心旺盛な人々にうってつけである。本書で繰り広げられる議論や解答はどうでもいい。ただ、通勤電車の中で、酒場の隅で、あるいは家族が寝静まった深夜に、「世界はなぜ『ある』のか?」と問い続けることは、すばらしいことではないか? たとえ、それに対する答えの見通しさえないとしても。

私は「難解な哲学書」に胡散臭さを覚える。同時に「やさしい哲学入門書」は、何か当たり前のこと(あるいは、独りよがりのことや説得力の無いこと)を言っているとも思う。本書がその中間であることを期待したい。ダメだと思ったら、「積読箱」に放り込むことにする。(まともに「哲学書」を読んだことがないので、偉そうなことは言えない)

酒場の隅で「ぼーっ」としている者がいたら、「世界はなぜ『ある』のか?」と問うている「私」です。

 

存在の謎

第1章は「謎との遭遇」である。

冒頭に3つの引用がある。2番目はヴィクトリア女王の言葉である。

すべてのことに理由と説明を見出そうとしないよう、あなたに本気で戒めます……。すべてのことに理由を見出そうとするのは大変に危険で、何も功を奏しません。失望と不満が残るだけで、あなたの心は動揺し、最後には惨めな気持ちになります。(ヴィクトリア女王、孫娘のヘッセン大公国王女ヴクトリアに宛てた手紙、1883/8/22)

すべてのことに、より根源的なことに、理由を見出そうとするのは、「大変に危険」なことであるというのは同感である。だから、私は他人に「哲学」を勧めたことがない。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いは、非常に深淵なので形而上学者の頭にしか浮かばないが、それでいて非常に単純なので子どもの頭にしか浮かばない、と言われてきた。

そういえば、私は子どもの頃、夜空の星を見上げて、この問いを問うたことをいま思い出した。私は子どもの頃、形而上学者であった。いまは形而下の俗物であるが…。

 

神を信じる人には、「存在の謎」などというものはない。

なぜ宇宙が存在するのかと彼らに尋ねたら、神が創造されたからだと答えるだろう。では次に、なぜ神が存在するのかと尋ねたら、彼らがどれほど神学に通じているかによって、答えは異なるだろう。神は自己原因(カウサ・スイcausa sui)だから、神は自らの存在の根拠だから、神の存在は神の真髄に包含されているから、といった答えが返ってくるかもしれない。あるいは、そんな不敬な質問をする人間は地獄で焼かれると言われてしまうかもしれない。

自己原因とは、「自己の存在が他のものに制約されず、みずからが自己の存在の原因となっているもの。スコラ哲学での神、スピノザの実体(神)など」(デジタル大辞泉)である。

このように神を規定してしまえば、存在の謎に悩まされることはない。

彼らは、無神論者に対してどう言うか。

いつか右派よりのテレビ番組で、悪漢めいた司会者が勝ち誇った口調でヒッチンス(無神論者の作家)に訊いていた。「神がいることを受け入れなければ、なぜそもそも世界が存在するのかをどうやって説明できるんですか?」と。

また脚の長い金髪美人タイプの別の司会者も、まさにこの論点を突いてきた。「宇宙はどこからやってきたのでしょうか」と。…「ビッグバンの前には何があったのでしょう?」。

 無神論者のあなたは、これにどう答えますか?

ヒッチンスはどう答えたと思いますか?