山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(26)
今回も、第3章 二つの遺伝子 第2節 分子生物学における遺伝子概念の展開 の続き(p.136~)である。
自己増殖のパラドックス
自己増殖というのは、論理的にはちょっとしたパラドックスである、という。
「設計図に従って、どんな機械でも作れる機械(万能組立機)」を作って、それに自分自身の設計図を与えれば、もう1台の万能組立機が作られるだろう。
しかし、これで自己増殖が出きたとは言えない。なぜなら、
「親」となったのは、万能組立機単独ではなく、「万能組立機+設計図」だからである。「子」の万能組立機には、自分の設計図は与えられていない。それゆえ、増殖はここで打ち止めであり、子は孫を作り出すことができない。
ならば、自分の設計図を与えれば良いではないかと考えるだろうが、それでもダメ。なぜかと言えば、
「万能組立機の設計図を作成するための設計図」を準備して、それを親の万能組立機に与えるとどうなるか。子には、「万能組立機の設計図」は伝えられるが、「設計図を作成するための設計図」は伝えられないため、今度は孫の代で打ち止めである。…[以下同様で]「設計図の設計図の……」を無限に繰り返すはめになる。
ここまで読んで、最初に引っかかったのが、「設計図に従って、どんな機械でも作れる機械(万能組立機)を作って」という箇所である。そんな機械は作れないだろう。しかし、ここで細胞の自己増殖(自己複製)を想起し、細胞を機械とみなせば、現実に細胞は「万能組立機」と言っても良いのではないか、という気もする。
さまざまなクンショウモ。ヘッケルのKunstformen der Naturより。(Wikipedia)
「自己増殖オートマトン」と細胞
フォン・ノイマンは、上述のパラドックスに陥らずに増殖を続ける「自己増殖オートマトン」の作り方を述べている。(オートマトン:自動機械)
「万能組立機(A)+ コピー機(B)+ AとBを制御する機械(C)+ AとBとCの設計図(L)」が、自己増殖オートマトンになる。
山口は、この作り方を簡単に説明しているが、私にはよく理解できなかった。(論理としても、何か欠陥があるような気もするが、ノイマンの著作を読んでいないので分らない。この箇所はパスする。)
DNAを中心とする細胞内の諸分子の振る舞いは、こうした「自己増殖オートマトン」としてよく理解できる。DNAは様々なタンパク質の「設計図」であり、タンパク質は細胞内で様々な「オートマトン」(自動機械)として働く。つまり、酵素として働いたり、細胞や組織を構成したりするなどの具体的な機能を果たす。タンパク質の中には、あたかも本物の機械のように作動するものもある。…そうした分子機械の中には「万能組立機」と言えるような「リボソーム」と呼ばれるものがある。
リボソームとは、「生物体の全細胞の細胞質中にあり、タンパク質合成の場となる小粒子。RNA(リボ核酸)とタンパク質からなる。伝令RNAのもつ遺伝情報を翻訳し、転移RNAの運んでくるアミノ酸を結合させる。」(デジタル大辞泉)であるが、山口は次のように説明している。
リボソーム(万能組立機)は、DNAに書き込まれた設計図をもとに、どんなタンパク質でも制作する。リボソームが制作するタンパク質の中には、DNAポリメラーゼ(DNA複製酵素)という「コピー機」も存在する。DNAはリボソームに対してはタンパク質の設計図として機能するが、DNAポリメラーゼに対しては単なる記号列としてコピーされる。
ノイマンの「自己増殖オートマトン」は、細胞の自己増殖(自己複製)の理解にとって、単なる比喩以上のものがあるのだろうか。
山口は、「コンピュータ開発の中心人物の1人であるフォン・ノイマンが生命の情報モデルの理論化にも寄与したことはよく知られている」と述べているが、どのように寄与したのかよくわからない。
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Wikipediaを見ていたら、面白い話があった。
自分自身のコピーを作成する人工機械の一般的な概念は、少なくとも数百年前にさかのぼる。初期の参考文献は哲学者ルネ・デカルトに関する逸話で、彼はクリスティーナ (スウェーデン女王)に対し、人体は機械と見なされる可能性があると示唆した。彼女は時計を指して「その時計が子孫を再生することを見せてみて」と命令することで応答した。(Wikipedia、自己複製機械)
人間は、「自分自身のコピーを作成する機械」であるというのは、興味深い主張である。デカルトは何と答えたか知らないが、「時計が子孫を再生する」のを見なければ、クリスティーナは納得しないだろう。