アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(18)
今回は、第3章 競争はより生産的なものなのだろうか-協働の報酬 第3節 生産性-個人主義的な発想をこえて(p.108~)である。
コーンは問う。
ここに2人の飢えた人間がおり、1人分の食事があるとしよう。ここに10人の失業者がいて、1人分の仕事しかないとしたら、当事者たちは、競争する以外に何ができるというのだろうか。競争が最も生産的な対応策なのではないのだろうか。それが、ただ一つの合理的なものなのではないだろうか。
飢えた人間の話はピンとこないかもしてないが、世界に目を向ければ現実のものであることが理解されよう。失業の話は、例えばハローワークに行ってみればわかる。日常風景である。
この事態に「これで良いのか?」という疑問を持てるか。このような疑問を持つことができなければ、その人は、「社会的存在」であるとは言い難い。(「社会的存在」は、「共生社会の一員」とも言えよう)
※ 次の動画は、中学生向けのもので、1.人間は社会的存在、2.効率と公正、3.きまりの重要性 について説明されているが、ぜひ視聴して、コーンの問い、競争する以外に何ができるのか? 競争が最も生産的で、合理的な対応策なのではないか? という問いを考えてみてください。(知り合いの中学生は、コロナ禍の社会の右往左往を憂えていました))
コーンの答えはこうである。
答えは、我々の展望と合理性そのものをどう定義づけるのかによる。
私の、そして社会の将来を見通すことができなければ、それは「展望」がないということである。
なぜ、将来を見通すことができないのか?
その場の状況しか念頭に置かれておらず、原因、結果、文脈などが等閑視されている場合にのみ、仕事や食べ物を巡って行われる競争が道理にかなった選択肢になるのである。
表面的な現象のみにとらわれ(視野狭窄)、原因・結果・文脈を考えようとしない。それは「社会問題」とされるすべてに共通するように思われる。ある現象(問題)の「多様な」原因を考えようとしない。「なぜ?」を繰り返さない。ある方策の「多様な」結果を考えようとしない。ある主張がどのような文脈で為されたのかを考慮せず、一方的に決めつけて非難する。
コーンは、2つのものの見方の転換を提案している。一つは「根本的なもの」であり、もう一つは「比較的穏やかなもの」である。まず、根本的なものの見方の転換である。
誰の利益が考慮されているか?
欧米の伝統的な思考、特に古典的な経済理論の思考においては、合理的な行動という考えはまさに個人に適したものだった。決定は、一人の行為者にとってのコストと利益を考慮して行われるのであり、更に社会はまさにそのような行為者たちの集合として解釈される。一人の個人は、理論上そうすることが自分たちの個人的な利益になるならば、社会に帰属するという義務を受け入れるのである。このようなものの見方は、欧米では第二の本性にまでなっている。
「誰の利益が考慮されているか?」という問いの答えは、古典的な経済理論では「個人」(合理的経済人、homo economicus)である*1。現代の市場経済社会においても、その思想的根拠は「個人の利益=社会の利益」の最大化とされているようである。コーンは「欧米」に限定しているが、いまや日本はもとより、中国・ロシア等も含め、世界標準の考え方になっているようである。
ある種の哲学的な宇宙観においては、自分一人だけで存在するなどというのは幻想だと考えられている。ある社会システムにおいては、一定の個人にかかるコストや個人の利益は重要なことだとは考えられていない。欧米において相変わらず恥ずかしげもなく口にされるように、「ところで、それから何を得られるのかね」と言った問いは、欧米以外の世界では恐ろしく利己的で、理解しがたいものとみなされてしまうだろう。
こうした集団主義的で、全体論的な発想は、少なくとも偶然に固執する個人主義的な発想と同じように、「本質的なもの」だと自己主張する権利がある。
「ところで、それから何を得られるのかね」と、恥ずかしげもなく口にする(口にしないまでも、そう考える)者は、欧米に限ったことではない。しかし、そのような問いは「利己的で、理解しがたい」と考えるものは一定程度いる。中学教材で言う、「社会的存在」、「効率と公正」をよく(深く)理解した者は、そう考えるに違いない。
生物学者のV.C.ワイン=エドワーズは、個人という有機体のレベルよりも、集団のレベルのほうが、進化を理解するにはより有効であると主張している。多くの動物の行動も、犠牲や利他主義になぞらえられるほかの行為を含めて、集団全体の利益という観点から解釈されたときに意味を持つのである。
進化を個人レベルではなく、集団レベルで考えることにより、進化をより理解できるような気がしている。さらに言えば、「進化」ではなく「変化」(物質の変動)である。ここでは「意識」が議論の焦点となろうが、これは別途。
競争しているときには、我々は自分自身の幸福という本来の関心から離れて競争しているのである。個人の幸福が、集団に属する人々の幸福にとって代わるならば、協力はおのずとついてくるだろう。
一つの集団をなしてともに協働するのは、個人が手に入れることができるものを最大限にするための戦略ではなのではなく、全員が利益を得るという観点から考えた場合の理論的な帰結なのである。
5 Reasons Collaboration Fails(https://elium.com/blog/5-reasons-collaboration-fails/)
「協働」は、集団全員の利益を考えている。「協働」はもっと真剣に考えるべきテーマである。これは全体主義やファシズムを意味しない。
集団の幸福に目を転じてみると、目標が変化し、世界を見る目が根本的に変わってしまうのである。…他人を打ち負かそうとするのは、自分の成功が他人の失敗にかかっているという前提に基づいているのであり、短期的に見た場合にのみ生産的なだけなのである。長期的な観点に立って自分たちが成功し得るかどうかを評価し、集団にとって何が最善のものなのかという問題を無視し続けるような観点をかなり緩やかに転換することができるなら、協働することは、個人にとっても利益になるのである。
目先にとらわれずに、「長期的な観点」に立つこと。集団(=共生社会)にとって何が最善のものなのか? という問題を無視し続けてはならない。
コーンは「公有地の悲劇」(コモンズの悲劇)について少しふれている。公有地の悲劇とは、「それぞれが自分の利益を勝手に追求していくならば、牧草は枯れてしまい、全員が損をすることになる」というものであるが、どうしたらこの悲劇を避けられるのか、考えてみなければならない*2。
競争によって、あるいは独自に私的な利益を追求するよりも、協力しあって作業を行うほうがどんなにすぐれているかを示す例は、数えきれないほどある。…火事が起こったときには、個人はそれぞれ、自分の利害だけを考えて非常口に向かって駆け出そうと考える。けれども、協力し合いながら避難すれば、みんなの利益を守り、生命を救うことになる。
火事が起こったときにはどうすべきかを、事前に考えておかねばならない。天災や感染症や様々な事故が起きたときにどうすべきかを、予め考えておかねばならない。自分さえよければ良いというのではなく、「協力」が必要なことは小学生でも理解できるだろう。
より重要なことは、火事を起こさないようにするにはどうすべきかを考えておくことである。天災や感染症に対する事前の対策は何かを考えておくべきである。
南海トラフ地震は、おおむね100~150年間隔で繰り返し発生していることが分かっていますが、その発生間隔にはばらつきがあり、震源域の広がり方には多様性があることが知られています。また、地震の発生時期や場所・規模を確度高く予測することは困難であると考えられています。(気象庁、https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq24.html)
「地震(自然災害)が起きる可能性の高い地域には居住しない」というのが基本であるが、現在そのような地域に居住している人たちはどう対処すべきか。個人レベルでそのような地域から逃げ出すことを勧めるのではなく、集団(=共生社会)の一員として、グローバルに考えるべき問題である。
*1:市場(1)自由? 普遍性? 効率性?(2016/12/11)参照。
*2:
「公有地の悲劇」(コモンズの悲劇)については、コモンズの悲劇 (2018/4/17)、
七人の侍 統治の正統性 市場の失敗 (2017/12/4)を参照。