浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

失われし正義は回復さるべし

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(11)

今回は、第2章 エゴイズム  第2節 形式的正義の「内容」の続き(p.37~)である。

配分的正義と匡正的正義

Wikipediaは、配分的正義と匡正的正義を次のように説明している。

配分的正義とは、各人に各人のものを配分すること、すなわち、各人がそれぞれ持つべきものを実際に持つように働きかけることである。

匡正(きょうせい)的正義とは、一旦破壊されたあるべき状態を回復すること、すなわち、各人が持っているべきものを奪われたとき、あるいは、各人が持つべきでないものを持っているときに、それを返還したり放棄したりするように働きかけることである。(Wikipedia、正義)

井上は言う。

配分的正義が複数主体間での利益・負担の分配の問題を扱っているのに対し、匡正的正義は犯罪や契約不履行などの不当な加害や不当利得をめぐる補償(刑罰も含めて)の問題に関わる。

Wikipediaは、匡正的正義とは「あるべき状態を回復すること」としていることを覚えておこう。

 

匡正的正義

匡正的正義においては、各人の「価値」ではなく、彼が他者に与えたり他者から受けたりした損害や利益に応じた補償が要求される

井上は、この意味では、匡正的正義(あるべき状態を回復すること)は、正義定式(等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱わるべし)に包摂される*1としているのであるが、その上で、匡正的正義は「正義の基準を与える諸々の正義観と同じ地平に立つ一つの正義観に過ぎないのか?」「正義理念とはいかなる内的連関も持たないのか?」と問うている。

匡正的正義は、諸正義観とは違って、「本来正しい」社会形態や人間関係についての一つの積極的な図を描いているわけではない。それは、何であれ「本来正しい」状態が乱されたときに、それを乱すことにより利得した者(財物の獲得だけでなく、他人の犠牲において自分の破壊本能を満足させることも利得のうちである)に対し一定の不利益を課し、その者によって損害を与えられた者に一定の補償をすることによって、失われた「道徳的均衡*2」を回復することを狙いとする。 

この説明は、先ほどのWikipediaの説明(あるべき状態を回復すること)と違わないか。井上は、匡正的正義は「本来正しい状態」が具体的にどのような内容の状態であるかを述べてはいないけれども、「本来正しい状態」(=あるべき状態)が乱されたときに、その損害を補償せよと言っているわけだから、Wikipediaの説明と同じである。

ところで、いかなる正義観も[匡正的正義以外の正義観も]、それが本来正しいとみなす状態が乱されたときには、何らかの仕方でそれが回復さるべきであるという要請を内含している。従って、失われし正義は回復さるべし」という一般化された匡正的正義の理念は、すべての正義観の共通の前提であると言ってよい。勿論、この回復・匡正の手段として何が適切かについては見解が分かれる。…しかし、どの回復手段を選ぶにしても、そこには匡正的正義の一般的理念が前提されている以上、これは諸々の正義観とは次元を異にする正義理念の一要素であると見るべきであろう。

諸々の正義観には、「失われし正義は回復さるべし」という理念が前提されている。失われてよい正義観などあり得ないから、当然の前提だろう。「失われし正義は回復さるべし」は「一般化された匡正的正義の理念」であるから、匡正的正義は、「諸々の正義観とは次元を異にする正義理念の一要素である」。…この論理展開は、「なるほど」と思わせる。

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https://www.nytimes.com/2021/02/18/arts/design/grief-and-grievance-new-museum.html

 

一般化された匡正的正義[失われし正義は回復さるべし]と正義理念との内的連関は道徳規範の論理的特性に根拠を持つ。

「道徳規範の論理的特性」とは何か。この後説明される。

道徳規範は、それが違背[規則・命令などにそむくこと]されたとき何がなされるべきかについて、通常、直接指示してはいない。例えば、「殺すべからず」という道徳規範は、殺人を犯した者をどう扱うべきかについて何ら具体的な指示を与えていない。これを特定するのは道徳よりもむしろ法の任務である。しかし、それでは道徳規範は自らが侵害された状態の処理に対して全く無関心なのであろうか。

「殺すべからず」は「道徳規範」であり「法」ではない、とされる。「法」で刑罰を定めなくても、「殺すべからず」は道徳・倫理として、通常受け入れられるからであろう*3。そこで、道徳規範が侵害された場合、道徳規範は侵害状態の処理に関して無関心なのかという問いが提出される。

この点で、道徳規範を、願望及びアリストテレス的意味における「賢慮」の勧告から区別する必要がある。

井上は、道徳規範は願望や賢慮の勧告とは違うという。

自分の願いや祈りが実現されなかったとき、人は他人に愚痴をこぼすことができるが、誰かを「責める」[責任を問う]ことはできない。「済んだことは仕方がない」として身の不運を諦める他はない。また、職業の選択や恋愛問題に悩む若者がLebensweisheit[知恵]に長けた「大人」に助言を求めたり、あるいは商売上のトラブルや離婚問題を抱えた大人が今度は弁護士に相談したりする場合、「大人」や弁護士は「あなたはこうすべきですよ」という当為言明によって、その知慮に富む助言を与えるだろう。しかし、助言を受けた者がそれを充分に理解しながら、不利益や危険を覚悟の上でなおその助言に従わなかったとき、「大人」や弁護士は彼を愚かだと思っても、「責める」ことはできない。「彼には彼の生き方がある」として、放っておくしかない

就職/職業選択や出会い/恋人に悩む若者に、人生経験豊富な大人が(効果的であると信じる)助言(賢慮の勧告)を与えたとして、若者がそれに従わなくても、「責める」ことはできない。(但し、大人は賢慮だと思っているかもしれないが、実は浅慮かもしれない。)

これに対し、道徳規範が違背されたときは、何らかの「責め」[責任]を生じるのである。通常の行為規範の場合は、それに違背した個人に「責め」が帰せられる。また、「平和と繁栄と幸福を全世界が享受すべきである」というような道徳的目標・理想を表現する規範――これは恐らく、完全履行の不可能な規範であり、その意味で常に違背されている――の場合は、この悲惨な地球に住む人類全体に「責め」[責任]が帰せられるこの「責め」の存在は、規範侵害状態を「仕方がない」として放置しておく態度を許さない「責め」[責任]は問われなければならないし、また果たされなければならない。「責め」は問われ且つ果たされることにより消失する。「責め」の消失とは、乱された道徳的均衡の回復である。(もっとも、道徳的理想の場合は「責め」が完全に果たし切られることはあり得ず、不均衡が永続するであろうが、無限の努力がそこへと収束する限界値として均衡点を考えることができる。)

井上は、道徳規範に背くことも、通常の行為規範に背くことと同様に、責任を問われると言う。では、道徳規範と行為規範は何が違うのか? それは、通常の行為規範は「法」として制定されているのに対して、道徳規範は「法」として制定されていないという違いだろう。言い換えれば、「法」として制定されていないが、責任を問われるべき規範を道徳規範と呼ぶことにしているのであって、道徳規範が無条件に責任を問われる規範というわけではないだろう。

「平和と繁栄と幸福を全世界が享受すべきである」は、道徳規範(道徳的目標・理想を表現する規範)なのか、行為規範なのか? 現実世界を見れば、「平和と繁栄と幸福」を実現すべく、(決して十分とは言えないが)さまざまな「法」が制定されている。だとすれば、私の解釈では、道徳規範でもあり、行為規範でもある。「法」として制定されてはいないが、「平和と繁栄と幸福」を実現するために為すべきことがあるとすれば、それを道徳規範と位置付けて主張することはあり得よう。だけれども為すべきことに合意が得られないとすれば、それは普遍的な道徳規範とは言い難い。そこで一方的な主張をして済ますのではなく、合意を得るための努力が必要となるのだが、それはいかにして可能となるのかを考えなければならない。

道徳規範は確かに、それが違背されたときに為されるべき対応を具体的に特定してはいない。しかし、それは何らかの仕方で「責め」[責任]を消失させ、均衡を回復することを要求するのであり、この要求を内含していることによって、それは単なる願望・祈願の表明や賢慮の助言から、さらに「道徳規範」として識別されうるのである。道徳規範の違背が少なくとも非難や謝罪に値するのはこの要求に基づく。 

井上は、「道徳規範は均衡を回復することを要求する」と言うが、それは、例えば「平和と繁栄と幸福」が道徳規範であるからなのではなく、普遍的価値として認めるべきであるとの考えから、道徳規範と呼んでいるのであろう。私が上に述べたことは、「平和と繁栄と幸福」を道徳規範と呼ぶかどうかではなく、「平和と繁栄と幸福」の具体的な内容とその実現のための諸方策の合意を得ることの重要性である。

「等しきは等しく、不等なるは不等に」という正義理念の定式はそれ自体一つの道徳規範である以上、等しいものが不等に、不等なものが等しく扱われた場合、それによって生じた不均衡を是正すべしという要求、すなわち、一般化された匡正的正義の要求をすでに含意している。さらに、諸々の正義観もそれぞれの正義原則を道徳規範として定式化している以上、その正義原則が違背された場合の均衡回復要求を内含し、それによってまた一般的な理念をも前提しているのである。

諸々の正義観は、「一般化された匡正的正義の理念」即ち「失われし正義は回復さるべし」という均衡回復要求を内含しているとしても、勿論これだけでは「価値観」の対立を解消することにはならない。

*1:配分的正義が、正義定式に含まれるのは言うまでもない。

*2:井上は、道徳的均衡について注釈を加えているが省略する。

*3:「人を殺す」状況はさまざまである。故意・過失・無過失。「戦争」で人を殺すこと。「心神耗弱」で人を殺すこと。命令されて人を殺すこと。命令して(間接的に)人を殺すこと。肉体的にではなく、精神的に人を殺すこと。教育・指導で人を殺すこと。治療で人を殺すこと。「言葉」で人を殺すこと。…さまざまな状況が考えられる。これらを、十把一絡げで「殺すべからず」という道徳規範がある、とすることは粗雑である。しかし、ここではこれが論点ではない。