浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

穴埋めをする神

ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』(2)

今回は、第1章 謎との遭遇 の続き(p.13~)である。

右派よりのテレビ番組で、脚の長い金髪美人タイプの司会者が、無神論者のヒッチンス(作家)を問い詰めた。

すべての世界が無から生まれたという考えは、論理と理性に逆らっているようですね。ビッグバンの前には何があったのでしょう? 

ヒッチンスの答えは

ビッグバンの前に何があったのか、ぜひとも知りたいものです。

 

理論物理学は存在の謎を解けるのか?

宇宙は、物理的に存在する各種のものからなる。科学的な説明は、何らかの物理的な原因を必要とする。だが、どんな物理的な原因も、当然ながら説明されるべき宇宙の一部だ。よって、宇宙の存在を純粋に科学的に説明しようとすれば、どれも循環論法にならざるを得ない。たとえその説明が、極小の何か――宇宙卵や、ほんのわずかな量子真空、特異点など――から始まるとしても、無ではなく何かが出発点となるのだ。

私は昔、ビッグバンの前を知りたくて、入門書(ブルーバックスだったか)を読んだことがあるが、納得のいく説明はなかった。

だが、結局科学は壁に突き当たる。科学では、最初の物理状態の起源を無から説明することはできない。神仮説(神がいるという仮説)の筋金入りの信者は、少なくともそう言い切る。

ビッグバンの前を科学的に説明できないという点において、神仮説を信じる科学者もいるようだ。但し、神仮説を信じるからと言って、科学者でなくなるわけではない。

ニュートンは、惑星同士が衝突しないように、ときどき多少の軌道調整をしてもらうために神が必要だと考えた。だがその約1世紀後にラプラスが、物理学で太陽系の安定性を十分に説明できることを証明した。(p.15)

生物学では、

宗教信仰者は、やみくもな自然選択だけでは複雑な生物の出現を説明できないので、神が進化のプロセスを「導いて」いるに違いないと言い立ててきた。ドーキンスなどのダーウィン説信奉者は、そんな主張を断固として(そして嬉々として)論駁している。

ドーキンスの論駁が成功しているかどうかは、ここでは問題ではない。

このような「穴埋めをする神」という論法は、議論がこと生物学や天体物理学の詳細な事柄に及ぶや、神仮説を展開する宗教信仰者自身の眼前で崩れがちだ。しかし宗教信仰者は、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」に関しては、まだしも自分は盤石な足場に立っていると安心する。

ヴァルギース(Roy Abraham Varghese)は言う。

いかなる科学議論でも、まったくの無と立派な宇宙の隔たりを埋めることはできないようだ。

この究極の起源に関する問いは、形而上学上の問いだ。科学は、問いかけることはできても答えることはできない。 

ギンガリッチ(Owen Gingerich、ハーバード大天文学者)も、この究極的な「なぜ」の問いは神学に属する問いであって、科学が取り組むことではない、と述べているという。おそらくほとんどすべての科学者は、この立場を支持するだろう。だから、このような問いを立てることはない。しかし、信徒としては、神仮説(造物主)を信じる。

では、無神論者はこれに対してどう答えるのか。

世界はただ存在しているだけである。…是非もない[是も非もない、道理がない]事実である。

宇宙は全体として、その存在についての説明など必要ない。 

だけれども、このような答えに納得できるだろうか。問い自体を否定しているだけではないか。

これは知のリングにおいて、ギブアップのタオルを投げ入れるようなものではないか。

それは、少なくとも私たち人間のような、理由を求める種にはあまりにも道理に合わないように思える。 

「理由を求める種」に関連して、ライプニッツの「充足理由律」が説明される。

物事は前後のいずれの方向でも、どこまでいっても説明できる。

あらゆる事実について、なぜそれがそうなっており、別のようになっていないのかを説明する理由があるはずだ。あらゆるものについて、それが存在する理由があるはずだ。

これは科学の根本原理だ。そして、科学において特に、この原理は大きな成功をおさめてきた。 

「その通り」と思うならば、

充足理由律が妥当ならば、世界が存在することについての説明があるはずだ。それが見つかるか見つからないかはともかく。

という主張にも賛成できよう。

ラヴジョイ(Arthur Lovejoy、哲学者)は、「存在の大いなる連鎖」についての講義で、次のように語ったという。

ただ存在しているだけの世界」には、安定性も信頼性もない。不確実性がすべてに影響を与える。どんなことも起こる可能性があり、何一つとして他のものより確からしいということはない。

私たちの世界が全くランダム(無秩序)な世界ではないと考えるならば、「ただ存在しているだけの世界」という主張は、おそらく納得しがたいだろう。

生物のいない世界を想像してみよう。海の波や石の集積に「秩序」を感じないだろうか。そこに人間の視線があることは間違いないが、素粒子レベルに還元して、「ただ存在しているだけ」と言ってしまってよいだろうか。

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