浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

経済的な競争

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(19)

今回は、第3章 競争はより生産的なものなのだろうか-協働の報酬 第4節 経済的な競争(p.115~)である。

資本主義を批判する人々のほとんどは、資本主義システムの基盤が競争にあるということよりも、資本主義的な競争が実際のところ不公平であるという点に関心を示している。確かにこのような批判は、かなり妥当なものである。競争の一方の当事者のほうは、貧困から這い上がらなければならないのに、他方の当事者のほうは潤沢な信託資金をもとに競争を始めることができるというのは、実に奇妙なレースだからである。

「不公平」というのは「平等でない」ということである。平等と言えば、「機会の平等」と「結果の平等」が問題となるが、ここでコーンが述べているのは「機会の平等」である。

「競争」を信奉する者は、「機会の平等」には目をつぶり、「結果の不平等」は「正当」であるとする傾向があるようだ。

日頃の生活をふりかえってみよ。人々の生活を見てみよ。「不平等」が渦巻いている。この「不平等」は、何に起因するのか。…という問いを発せられるかどうか。

同じように多国籍企業は、弱い競争相手を打ち負かしてしまい、もっと簡単に言えば吸収してしまえるほどの資本と税制上の特権を持っている。事業がいったん十分な規模に達すると、失敗することなど全くあり得ない。その結果、ほとんどの経済部門が、事業の最もうま味のある部分をコントロールしようとする関心を持った一握りの人々によりいっそう集中されていくのである。

多国籍企業(グローバル企業)が世界の政治経済に大きな影響を与えていることは想像に難くないが、いまは何とも言えない。

競争が甚だしく不公平な経済、もっと婉曲な言い方をするなら不完全な経済そのものに、もう一つの根本的な不公正が見いだされる。1980年代の半ばにおいても、トップの250の企業の半分以上が、少なくとも3年に一度は税金を払わなかったり、還付を受けているのに、4000万から5000万のアメリカ人が貧困な暮らしをしているのである。

租税回避と貧困の話に直接の関連はない。タックスヘイブンについては、

法人税や源泉課税などがゼロまたは低税率という税制優遇措置をとっている国や地域。租税回避地とも言われる。キュラソー、ケイマン、スイス、パナマバハマルクセンブルクなどがこれにあたる。主に多国籍企業やヘッジ・ファンドなどが利用しているが、犯罪組織のマネーロンダリングやテロ資金の運用などに悪用されているケースもあり、2000年6月に経済協力開発機構OECD)が35の国や地域をタックスヘイブンと特定。リストを公表し、税制の見直しなどを求めてきた。その結果、多くの国と地域が金融規制や税制の見直しなどに着手している。(ASCII.jpデジタル用語辞典)

多国籍企業(グローバル企業)は、合法的な節税をしており、租税回避地というのは、「資源や産業に恵まれない小国や発展途上国」の国益のために税制優遇措置をとっている国である。詳細は別途検討したい。

完全な競争とアメリカの経済システムの実情がこんなにも著しく乖離しているにもかかわらず、競争はなお理想的なものだと言明されるのである。実業家や公務員は、自分たちの会社や国家を「もっと競争的なもの」にしうる方法については誇らしげに吹聴するのに競争という言葉を用いるが、競争システムが実際に最も適した仕組みかどうかを考えてみようとはしないのである。

「競争」は理想的なものであるとする「信仰者」は、「競争システムが実際に最も適した仕組みかどうかを考えてみようとはしない」。

「会社」で働くということを考えてみよう。同業他社に対しては「競争」、従業員に対しては「協働」が求められよう。これを疑問に思わないだろうか。従業員間と同様に、会社間、国家間において「協働」が求められないのは何故か

進歩的な論者たちでさえ、真の競争を(ほとんど実現しがたい)理想と認め、共謀や価格協定などを持ち出して、協力を際立った悪弊に仕立て上げてしまうのである。

競争の理想とは、学校で教えられる「完全競争」の理想である。協力を「悪弊」というのは「独占禁止」の観点からである。

批判者たちがこのように見ているからといって、真の協力を拒絶しているわけではない。彼らは、単純に(しばしば無意識のうちに)法人資本主義の前提と資本主義という言葉を受け入れているにすぎない。このような枠組みの下では、協力という言葉は、独占禁止法の侵犯を意味するだけになってしまう。

思うに、経済システムの批判者たちは、競争を理論的に素晴らしいものだと認めたうえで、どのようにして競争を達成するのが最もいいのかという問題にエネルギーを傾けているという点で、大きな誤りを犯しているのである。

独占禁止の徹底が問題なのではない。「競争」という前提が問題なのである。

このことは、経済問題についての議論を無効にしてしまうだけでなく、他の領域にも波及していく。競争が、一般的には望ましいものと考えられ、それに代わる代替案が全く顧みられなくなり、疑わしいものだと見なされてしまうのである。批判を展開する必要があるのは、競争の生産性そのものを問題とすることであって、競争が正しいやり方で行われていないといった単純な発想をすることではない。包括的な批判を展開するまではいかないかもしれないが、以下の議論においてはこのような方針をとることにしよう。こうしたやり方をすれば、競争的な経済システムの価値にわずかでも疑問を投げかけることはできるはずである。

「競争を完全なものにする」ことが問題なのではなく、「協力/協働」をいかに現実化するかが問題なのである。

 

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