浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

八方美人は中身がない?

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(12)

今回も、第2章 エゴイズム  第2節 形式的正義の「内容」の続き(p.41~)である。

*以下の文章が面倒な人は、脚注1で紹介する記事(「世渡り上手な女性」5つの特徴と嫌われないポイント)だけでも読んでみて下さい。

正義定式は八方美人か?

  • 正義定式(等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱わるべし)は、諸々の正義観を、その競合する解釈として包摂する。
  • これは、この定式の無内容さ、無意味さを示しているのではないか。正義の女神は裁きを下すが、八方美人は人を裁けない。すべての正義観に「いい顔」をする無節操な定式は、たとえ正義理念の表明と呼ばれようと、正義の問題を探求する者にとっては全く無価値ではないのか。
  • 実際、等・不等の基準を補われない限り、この定式は「空虚」であるとするのはほぼ常識である。しかし、それでは正義定式は完全に無内容なのであろうか。

確かに、このような正義定式では、八方美人*1と言われても仕方がないだろう。

だが、井上は問う。この正義定式は完全に無内容なのか、と。そして、正義定式は、等・不等の基準を示していないから「空虚公式」であるというのではなく、「内容」を持つと主張している。ただその説明は難しいのでここは飛ばして、第3節 正義とエゴイズム に進むことにする(後で、必要と思えば戻る)。

 

チョコレートの争い

井上は、正義定式の内容(形式的正義の内容)を見る手がかりとして、3人兄弟のチョコレートを巡る争いを例示している。要約すれば、次のような争いである。(A:長男、B:次男、C:三男)

  1. Bは、Cのチョコレートを取り上げた。「返せ」というCに、Bは「弟は兄に逆らってはいけない」と拒絶した。
  2. Aは、Bのチョコレートを取り上げた。「返せ」というBに、Aは「弟は兄に逆らってはいけない」と拒絶した。
  3. Bは、「食べたい人と食べたくない人とでは、どっちが年上かに関係なく食べたい人が食べて良い。食べたい人の間では、年上の人が食べて良い」と理屈をこねた。
  4. Aが言う、「僕も食べたいから、食べていいのは僕だ」。Bが言う、「僕が食べたいから、食べたっていいだろう」。

井上は「このありふれた例のうちに、唱えられる理想ではなく、生きられる規範としての正義の理念が如実にその姿を現している」という。

もし、Bが、同じ理由によって正当化されるAのBに対する行為を甘受していたならば、BのCに対する行為も身勝手で利己的な行為としてではなく、一つの正義観に則った行為としての評価を要求できたであろう。「弟は兄に従うべし」という封建的規範は、現代人には不公平で正義に反するように思われるが、この規範に、それが自分に都合のいい時だけでなく、自分に都合の悪い時も従う個人は、「封建的だ」と批判されても、「不正な人」とは呼ばれない

「部下は上司の命令に従わなければならない」というのは封建的規範だろうか。この場合、「弟は兄に従うべし」という規範に関して上に述べられていることと同様なことが言えるだろうか。(理不尽な命令を考えてみよう)

これに対し、Bのように、自分に都合のいい時だけこの規範に訴え、自分に都合の悪い時には無視する者は、この規範を受容している人だけでなく、この規範を受容していない人からも、「不正な人」と批判される

このような「不正な人」は少数派だろうが、意外と多いようにも見受けられる(自己中心的で、矛盾したことを言う)。

Bは、彼がこの規範[弟は兄に逆らってはいけない]に首尾一貫して従わなかったから批判されるのではない。この規範を受容している者でさえ、彼をこの理由で、あるいは少なくともこの理由だけで批判するわけではない。彼は同様な二つの場合における自分の二つの正反対の行動を一貫して正当化し得る「理由」を持たないから、批判されるのである。

首尾一貫していない、ダブルスタンダード二重規範)だからという理由だけで批判されるのではない。よく調べてみたら、ダブルスタンダードの外見にもかかわらず、正反対の行動を正当化し得る「理由」があったということはあり得る。そのような「理由」が無い場合に批判される、というのである。

 

正義定式の意味

正義定式は、ある一つの場合の取扱いについては何も指示しない。それは二つの場合の取扱いに関わる。即ちそれは、何らかの点で似た二つの場合を差別的に扱った場合には、その二つを区別する理由を示すことを、また何らかの点で異なる二つの場合を等しく扱った場合には、その二つを同一視する理由を示すことを要求する。

「区別する理由」、「同一視する理由」がなければならない。そのような理由を示すにはどうしたよいか。

二つの場合を区別する理由を示すには、一方が持ち他方が持たない重要な特徴を挙げればよい。また二つの場合を同一視する理由を示すには、両者の共通の重要な特徴を挙げればよい。

これらの要求は「重要性」の基準を特定していないが、少なくとも次の二つの明確な禁止を含意する。第一に、一方が持ち他方が持たないいかなる特徴を挙げることもできないのに、二つの場合を差別的に扱うことは許されない。第二に、両者に共通ないかなる特徴を挙げることもできないのに、二つの場合を等しく扱うことは許されない。

言われてみれば当たり前のことであるが、往々にして批判(非難)だけにとどまり、差別的に取扱う理由(特徴)、等しく取り扱う理由(特徴)があり得ることに、思いが至らない。話をよく聞かずに軽々に批判するのではなく、区別する理由/同一視する理由を確認することが重要である。

正義の問題はさしあたり人間社会に関わるものであるから、何らかの平等な取扱いが第二の禁止に抵触するということはまずあり得ない。諸個人は人間であることによって、すでに多くの属性を共有しているのである。

先の3兄弟の例ではどうなるか。

Bは当時者のチョコレートへの欲求との有無という要素によって二つの場合を区別しようとしたが、結局これは失敗した。しかし、最後の「僕が食べたいんだから」というBの理由付けは、二つの場合を区別するのに成功しているだろうか。Bはここで、当事者の属性や相互の関係によってではなく、当事者のどちらが自分であるかによって、二つの場合を区別しようとしているのである。即ちBにとって、B対Cの場合は、要求している当事者がまさに自分(B)であるから、要求が認められるべきなのに対し、A対Bの場合には、要求者が自分(B)ではなく、被要求者が自分(B)であるから、要求は却下されるべきなのである。しかし、当事者の「B性」は二つの場合を区別する要因になりうるか。

Bの区別する理由が「自分」であるならば、ほとんどの人が「エゴ」と考えるだろう。

正義定式はこれを否定する。この定式の言う「等しさ」とは類似性を意味し、個体の自己同一性を含まない。なぜなら、この定式は二つの個体が「等しく」あり得ることを前提として初めて意味を持つが、二つの個体が自己同一的であることは論理的に不可能だからである。従って「等しさ」の基準は個体の個体性ではなく、個体が他の個体と共有することが論理的に可能な属性(関係も含めて)に求められなければならない。

ところで、正義定式は「等しき個人は等しく、不等なる個人は不等に」という要請を含意する。従って、正義定式は、個人を彼の個体的同一性に応じてではなく、他者との共有が論理的に可能な彼の属性に応じて取扱うべきことを要請している。

二つの場合を区別する要因として当事者の個体的同一性しか挙げることができないのに、両者を差別的に扱うことは許されない。Bの最後の発言はこの禁止に抵触する。

「等しき個人は等しく、不等なる個人は不等に」は、「個体性」ではなく、「他者との共有が論理的に可能な彼の属性に応じて取扱うべきこと」を要請している。

ここに「属性に応じて」とは、「等・不等の基準に応じて」と同じことを言っているのではないか。であれば、等・不等の基準を補われない限り、この正義定式は「空虚」であるのだが、この形式的正義は「等・不等の基準に応じて取扱うべきこと」を要請しているので、これがその「内容」である、と言っているのだろう(たぶん)。

しかしこれは随分と回りくどい言い方のように思える。「等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱わるべし」という文言にこだわるから、このような言い方になるのではないかと思う。

憲法→法律→命令→条例」というような上下の序列関係を想起すれば、上位の法令が抽象的であるからといって、「空虚」で「無内容」とはならないことは了解されよう。「正義公式」が「ルール」であるなら、この説明で十分ではないだろうか。

*1:

「八方美人」では、人を裁けない。しかし「裁き」の文脈ではなく、「八方美人」を肯定的にみる見かたもある。その人とは楽しく話せる、負のオーラを感じさせない、誰もがそのように認める人がいる。八方美人と言ってよい(女性に限らない)。

「世渡り上手な女性」5つの特徴と嫌われないポイント

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https://mdpr.jp/column/detail/1223657