アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(20)
今回は、第3章 競争はより生産的なものなのだろうか-協働の報酬 第4節 経済的な競争 の続き(p.117~)である。
議論を進めていくために、より多くの財を生み出すこと[経済成長]が正当な目標であると仮定してみよう。競争システムは、この目的に適った最良の方法と言えるだろうか。
さまざまな状況において、協力し合う場合よりも、構造的な競争*1が業績をもたらす度合いが低い。経済システム全体に目を向けた途端に、このことが忘れられてしまうのはどうしてなのだろうか。
社会経済的に低い階層の子供たちの場合のほうが、より激しい競争活動が行われる度合いが多いことを明らかにする研究が、少なくとも一つある。この調査結果については、慎重に解釈する必要がある。それは、競争が貧困に対する社会からの対応であり、自らの条件を改善しようとする試み(例え、見当違いのものであるにせよ)であるということなのかもしれない。あるいは、低所得層が通う学校では、競争が特に強調されているということを反映しているのかもしれない。
貧しい生活を余儀なくされている人びと(とりわけ若年層)がとりうる対策は、「競争」に打ち勝とうとすることである。それは受験競争、出世競争に現れている。そして「成功者」*2は、「競争」を賛美する。
豊かな家庭に生まれた子どもは、相対的に能力が高く、生活環境が良いので、当初より受験競争、出世競争に有利な立場にある。そして「成功者」は、「競争」を賛美する。
今日では、小中高大いずれの「学校」も「競争」が第一優先になっていると思われる。(わずかに、一部の大学では競争を前提に、「教養」が強調されている、といったところか)。
経済的な競争が望ましいものだとされるのは、ふつうは希少性が前提された結果である。
重要なのは、生命を維持するために必要なもの[食料等]が、なぜこれほど不平等に配分されているのかということ、例えば世界の人口のせいぜい5%あまりをかかえる[占める]に過ぎないアメリカが、なぜ世界の資源の40%も使用しているのかということである。よく吟味してみると、希少性の問題と考えられているものは、大抵は配分の問題であることがはっきりする。
主流派の経済学者たちは、配分の問題は全く無関心なのである。彼らは、あるシステムが生産的だとか、効率的だといった議論に終始してしまい、「誰にとってそうなのか」という問題については投げだしてしまうのである。
「配分」が問題であることは多くの人が指摘するところであるが、その問題を理解することは、具体的な社会生活の場面で、「誰にとってそうなのか」を考えることだろう。そうすれば、「公正/不公正」の問題が浮かび上がる。
経済的な競争は、不公正を是正しうるのか。
以下、コーンは「希少性」について論じているが、「希少性」とは何だろうか。次の説明が簡潔である。
希少性の原理…資源やそれからつくられる財やサービスの供給が,人間の欲望に対して相対的に希少であるという原理。この希少性のゆえに資源,財貨,サービスの合理的な社会配分が常に問題となり,経済学上の主要な命題となってきた。特に近代経済学はこの希少性に着目して成立した学問ともいえ,L.ワルラス以降の限界効用学説の確立,発展は,まさにこの希少性の原理の追究にほかならない。(ブリタニカ国際大百科事典)
供給と需要(欲望)そして「価格メカニズム」、近代経済学が「資源,財貨,サービスの合理的な社会配分」の問題をどう扱ってきたのか、学説史的な興味は少しあるが、それはいずれ。
永井俊哉、価値とは何か https://www.nagaitoshiya.com/ja/2001/low-entropy-value/
コーンの「希少性」の説明や近代経済学批判は、「価格メカニズム」に言及することなく、なにか説得力不足の感じもする。そこでこれを詳細にとりあげることはしないで、以下、気を引くフレーズのみピックアップしてみよう。
既に所有している規模とはかかわりなく、人びとには満たされるべき欠乏感がある。
自分たちが以前に所有していたものや隣の人が所有しているものよりも、より多くのものを常に求めるはずだという信念に、経済理論を依存させていくことになる。
限りなき欲求(欲望)があるはずだという信念。
貪欲さや競争意識は、文化の持つ道徳的な慣習を反映している。
貪欲さや競争意識がどこから生じてくるのかを考えてみよう。
成長を志向する強迫観念は、人間性についての不変法則を表現したものでもなければ、不変の経済法則を表現したものでもない。それは、文化的な、心理的な現象なのであり、現状における組織化のあり方を反映したものであり、また現在の生活に意味を与えるものなのである。(ワクテル)
貪欲さや競争意識の強い者は、成長志向の強迫観念に囚われているようだ。
財は、欲求を満たそうとする場合にのみ購入される。広告業界が存在しているのは、こうした欲求を生み出すためであり、今持っているものについて何時でも不満を感じるように仕向け、また更に別の生産物を購入することによって実現されるものがあるのだと説いて聞かせてやるためなのである。(勿論、こうした広告のコストは、消費者にツケとして回される)。
私たちは広告業界の存在を当たり前のものと思っていないだろうか。テレビやネット等での広告なしにすれば、欲求が喚起されることもなかろうが、それではより良い商品に関する情報をいかにして得るか。
資本主義が依拠する原理は、夜の間に他人の家の窓ガラスを割りながら、昼間は自分が携わる作業の公共性を誇りにするガラス会社の社員のものと同じなのである。
このフレーズは額面通りに受け取る必要はない。資本主義の一面を巧みに捉えたものと言えよう。
人為的に作り出された希少性は、経済的な問題に限られるわけではない。どんなものだろうと、競争が行われれば(最も記憶に残るもの、最も速いランナー、一番の美人)、望み通りの希少な地位が生みだされるのだが、その地位は以前には存在しなかったものなのである。
「人を笑顔にしたり幸せにすることが将来の夢」(神谷明采)
― MISS OF MISS CAMPUS QUEEN CONTEST 2021
競争が行われれば、希少な地位が生みだされる。「くじ引き」あるいは「持ち回り」となれば、希少な地位は生み出されないだろう。
希少性を、拡大する人間の欲望の関数だとみなすのなら、そうした欲望を増大させていく状況は、主としてその状況の解決策として推奨される当のシステムによって生み出されるのである。
「広告」は競争システムの一環としてある。欲望の増大。
希少性を、対象[供給]が不足している状況だとみなすのであれば、現実に直面している問題は、配分の問題、すなわち競争によって救済されるというよりも、競争によってさらに悪化させられてしまうという問題であることがはっきりする。
「希少な地位」は、競争によって生み出される。
*1:「構造的な競争」については、2019/05/15 「勝利」は「成功」を意味しない。安らかな心は、自分は最善を尽くしたという自己満足からのみ得られる 参照。
*2:ここで「成功者」とは、お金を稼ぐ人という意味である。