浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

正義の女神は、卑劣漢を憎むと同時に、道徳的英雄にも嫉妬する

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(14)

今回は、第2章 エゴイズム  第3節 正義とエゴイズム 2 エゴイズムの問題(p.49~)である。

普遍主義

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正義定式が含意する根本的な平等主義抽象主義は、一つの明確な規範要求である。

正義定式とは「等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱わるべし」であるが、前回の最後の記述を再掲しよう。

正義の平等主義的性格と抽象主義的性格は同じメダルの両面である。個体的相違が道徳的にレレヴァントな[適切な]相違であり得ることを否定する普遍主義がこのメダルを形作っている。この普遍主義が個体と個体との関係に即して見られるとき、平等主義として個体とそれが包摂される道徳的にレレヴァントな[適切な]範疇ないし類型との関係に即して見られるとき、抽象主義として、現れてくる。

平等主義は容易に理解されようが、抽象主義はやや難しい。抽象主義については、正義定式と「理想的男性」(2021/7/16)参照。

 

排他的利他主義者(exclusive altruist)

自己を他者の場合とは違った特別の取扱いを要求する者を「エゴイスト」(利己主義者)と呼ぶ。だがこれだけではない。

自己または自己と一定の関係を持つ存在者(自分が愛その他の感情を寄せている者たち)のために、他者の場合とは違った特別の取扱いを要求する者、いわば「排他的利他主義者」も、ここで言うエゴイストである。

「自己と一定の関係を持つ存在者」には利他的にふるまうが、それ以外の者たちには「排他的」である。よって排他的利他主義者(exclusive altruist)と呼ぶのだが(多くの人はこの言葉を知らず、概念化されていないようだ)、これを「エゴイスト」と呼んでもおかしくはない。

この種のエゴイズムは、「拡張された」利己主義であるとも言える。

「自己と一定の関係を持つ存在者」に誰を含めるのかを考えてみれば、次のようにも言いうる。

特定の個人ではなく、特定の国家や民族に、自分が特別の愛着を持つが故に、自分も含めた諸個人をそれのために犠牲にすることと同時に、それを他の国家・民族よりも有利に扱うことを要求する愛国主義民族主義も、排他的利他主義者に含めて良い。

「特定の国家や民族」を、他の国家・民族よりも有利に扱うことを要求する者、即ち愛国主義民族主義は、「排他的利他主義者」であり、つまり「エゴイスト」(利己主義者)と呼んでよい。

以上は、珍しくはない主張だろう。私はこの論理に違和感を覚えないのだが、現状ほとんどすべての人が(リベラルと称される人でさえ)「愛国主義者」であるように思える(オリンピックの愛国ぶりは一体何なんだろうか)。

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大人のミーアキャットは、自分自身と他の人の両方の社会的サークル内のすべての子犬を監視します。クレジット:Paul Souders / Getty (https://www.nature.com/articles/d41586-019-01299-z

 

「道徳的英雄」と「正義の人」

しかし、ここからの井上の主張は(たぶん独特で)非常に面白い。井上は、「正のエゴイスト」と「負のエゴイスト」を区分する。「負のエゴイスト」とは、上述の「利己主義者」や「排他的利他主義者」であり分かりやすい。だが、「正のエゴイスト」とは何だろうか。

極限的利他主義(ultimate altruist)は、すべての他者が、まさに彼らが他者であるがゆえに、…自分よりも有利に扱われることを要求する。[緑字は、傍点が付してある部分]

私たちは普通このような人を、単に「利他主義者」と呼んでいる(と思う)。先の「排他的利他主義者」と区分するために、「極限的」という語句を付加しているのだろう。

なお上の引用で省略した部分(…)は、次のようになっている。

即ち、彼らが自分以外の人間であるが故に、あるいは彼らがその者にとっての他者である者が自分であるが故に、

次のフレーズが重要である。

極限的利他主義者は、利己主義者の対極に位置するが、自己と他者との差別的扱いの理由を両者の属性の相違にではなく、自己と他者との個体的同一性における相違に求めている点で、利己主義者と同様にエゴイスティックであり、正義の禁止に抵触する。

「属性の相違」と「個体的同一性における相違」については、八方美人は中身がない?(2021/6/3)の「正義定式の意味」の項を参照。正義定式(等しき個人は等しく、不等なる個人は不等に)は、「個体性」ではなく、「他者との共有が論理的に可能な彼の属性に応じて取扱うべきこと」を要請しているのであった。従って、(極限的)利他主義者が、自己と他者との差別的扱いの理由を個体的同一性における相違に求めているという点で、正義の禁止に抵触するというのである。

この(極限的)利他主義者を、井上は「正のエゴイスト」と言うのである。では「正のエゴイスト」は、他者に対しても、このような自己犠牲的な(極限的)利他主義を要求するのだろうか

彼が、他者と自分との間に何ら重要な相違が認められないにも拘わらず、その人が他者であるが故に、同じ自己犠牲的行為を敢えて要求せず、その人の選択に委ねたとすれば、彼は「正のエゴイスト」である。

しかし、他者に要求しない犠牲を自分だけに要求する点で、彼は、他者にも同じ要求をしていた場合以上に称賛に値するとみなされるだろう。彼は、道徳的英雄(moral hero)であり、単なる「正義の人」を超えている

しかし、正義の女神は卑劣漢を憎むと同時に、道徳的英雄にも嫉妬するのである。

他者に、自己犠牲的な(極限的)利他主義を要求せず、自己にのみ要求する。彼は「正のエゴイスト」であり、道徳的英雄である。単なる「正義の人」は、自己犠牲的な(極限的)利他主義を要求しない。「正義の人」は、「他者との共有が論理的に可能な彼の属性に応じて取扱うべきこと」を要請しているだけである。だから「道徳的英雄」に嫉妬する。

正義が当たり前であるが故に退屈であり、固有の魅力を欠くとする主張は、正義のこの「凡庸さ」を衝いている限りで、確かに一面の真理を含む。

(続く)