浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

「存在の謎」は存在しない?

ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』(5)

今回は、第2章 哲学のあらまし の続き(p.37~)である。

前回の最後に、

「無から」の創造という教義は、無という考えを純然たる存在論的可能性として認めるものだった。…その教義によって、「なぜまったく何もないのではなく、世界が存在するのか」と問うことが、概念上は可能になった。

とあった。なぜ世界(人間、生物、海、分子、原子、素粒子、宇宙、銀河、星、光、電磁波、真空、…)が存在するのか? 子どもの頃、誰もが一度はこのような疑問を抱いたことがあるのではなかろうか。しかし、一部の例外を除いて、このような問いを持ち続ける者はいない。問いを忘れてしまう。金、名誉、権力、異性が行動規範となる。それが大人というものらしい。知性の劣化?

それとも、このような疑問をいつまでも抱いている者は、世間知らずの、専門バカ。虚言・戯言をほざく輩とみなされていることを知らない?

 

ライプニッツ

ドイツの気障で陰険な廷臣であるライプニッツ(Gottfried Leibniz、1646 - 1716)は、「充足理由律」と呼ぶものを打ち出した。充足理由律とは、要するに、「あらゆる事実に説明があり、あらゆる問いには答えがある」ということだ。(p.38)

ライプニッツは、出世のために、当時正統とされていた宗教教義に従っているふりをしてきた。だから、世界が存在する原因はにあり、神は限りない善意に動機づけられ、みずからの自由選択によって世界を創造したという見解をとったのだ。

偶発的に生まれ出た宇宙とは違い、神は必然的な存在である。神は自らの中に、自らの存在に関する理由を備えている。神が存在しないということは、論理的にあり得ない

宇宙は神ゆえに存在する。そして、神は神ゆえに存在する。神のみが、存在の謎に対する究極の解答を与えると、ライプニッツは明言した。

日本大百科全書によれば、充足理由律とは「どんな事柄もそれが生ずるのにはそれなりの十分な理由がある」とするものである。

「神は自らの中に、自らの存在に関する理由を備えている」は、ライプニッツの「充足理由律」だろう。素人が聞けば、「はぁー?」となる。でも神学者には、魅力的な言葉である(たぶん)。

「神」という言葉が手垢にまみれた言葉だと思うなら、(先入観を排するために)上の文章の「神」を「何か(X)」という言葉に置き換えてみたら良い。…しかし、ここは「神の存在証明」を論ずる場ではない。

 

What Was God Doing Before Creation?

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https://www.joydigitalmag.com/burning-issues/what-was-god-doing-before-creation/

 

ヒュームとカント

ヒュームカントは、ライプニッツ「必然的な存在」という考え方は存在論的なごまかしだと論難した。

「存在していると想像できるものは何でも、存在しないと想像することもできる」(ヒューム)。

もし神が必然的に存在するのではないならば、全く新しい種類の形而上学的な可能性が立ち現れる。それは絶対無という可能性だ。絶対無とは、世界もなければ、神もおらず、何もないということだ。

存在論的なごまかし」という批判は哲学者らしい。「存在論」に関する何らかの見解を持っていなければ、このような批判はできない。

「絶対無」とは何か。「何もない」とは、どういう意味か。どういう事態を指すのか。

ヒューム(David Hume、1711 - 1776)にとっては、この問題に対するどんな解答も、「解答が経験に根差しているはずのない問い」だったから、「単なる詭弁で幻想」に過ぎなかっただろう。

カント(Immanuel Kan、1724 - 1804)にしてみれば、存在全体を説明しようとすると、経験世界を構築するのに用いる概念を、この世を超越する現実、つまり「物自体」という現実へと非論理的に拡大する必要に迫られただろう。その場合、行き着く先は誤りや矛盾しかない。

経験世界と超越世界…経験論者にしてみれば、超越世界などというものは、ナンセンスそのものであろう。

 

ショーペンハウアーからエイヤーまで

偉大な悲観主義者のショーペンハウアーArthur Schopenhauer、1788 - 1860)は、存在の謎を「形而上学の時計を動かし続ける心臓部」だときっぱり言った。それでいながら、その問題を解決したと触れ込む者を「まぬけ」、「うぬぼれたほら吹き」、「いかさま師」呼ばわりした。

ロマン主義者のシェリング(Friedrich Schelling、1775 - 1854)は、…存在について論理的に説明するのは不可能、せいぜい言えるのは、世界が果てしない無の深淵から不可解な飛躍によって生じたということくらいだと考えた。

ヘーゲル(Hegel、1770 - 1831)は、「存在が消滅して無になり、無が消滅して存在になること」について、曖昧な文章を多く書いたが、それらの弁証法的な論理展開は、皮肉屋のキルケゴールから、「少々のミスなどかまわない乾物屋の親父の言いぐさ」とほとんど同じだと一蹴された。

ベルグソン(Henri Bergson、1859 - 1941)は、一連のあやふやな主張によって、絶対無という概念は、丸い四角という概念と同じく自己矛盾を来たしていることを証明したと申し立てた。彼の結論によれば、無は偽りの概念なのだから、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いは偽りの問いだった。

ハイデッガーMartin Heidegger、1889 - 1976)にとって、無はあまりにも現実的で、存在の世界を壊滅の脅威にさらす、「無効化する力」みたいなものだった。…この問いは「最も深く」、「最も遠大」で、「最も根源的な問い」だと明言した。…ハイデッガーはこの問いにどう対処しただろうか? 実は、たいしたことをしなかった。…最終講義を締めくくるにあたって、「問えるということは、待てるということであり、しかも一生ずっと待てるということ」だと述べた。聴衆の中で、答えの手がかりが聞けると期待していた者たちは、げんなりしながら頷いたに違いない。

ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein、1889 - 1951)は、「神秘的なのは、世界における物事のあり方ではなく、世界が存在するというそのことである」と断言している。…しかし、世界の存在という「審美的な奇跡」を説明しようとしても無駄だった。それを試みれば言語の限界を超えてしまい、言葉では表現できない世界に導かれるというのがウィトゲンシュタインの考えだった。…結局、その問いは意味が無いとみなした。「その謎は存在しない」。

形而上学にとっての不倶戴天の敵である論理実証主義エイヤー(Alfred Ayer、1910 - 1989)は、イエズス会の修道士で哲学史家のコプルストンとの討論で次のように述べた。「[ある出来事が]どこからやってきたのかを尋ねることは、それに先立つ何かの出来事についての説明を求めることです。しかし、その質問を一般化すると、意味をなさなくなります。あらゆる出来事に先立つ出来事は何かと尋ねることになりますから、当然ながら、あらゆる出来事に先立つ出来事などありえません。というのは、どんな出来事も、あらゆる出来事という部類の一員であって、あらゆる出来事に含まれているはずだからです。従って、それに先立つことはできないのです。

ホルトは、存在の謎に対する哲学者の考え(態度)を、手際よく説明しているが、哲学書を何も読んでいない私にはコメントしようがない。それでも、「なぜまったく何もないのではなく、世界が存在するのか」という問いは共有できる。ホルトの説明によれば、ここに名前のあがった哲学者は、結局のところ、「わからない」か「問い自体が無意味」と言っているようだ。

ここまでなら、ライプニッツの「充足理由律」批判にとどまり、さして実のある議論とは思えない。

次回からは、「科学者」が登場し、話が面白くなる。