浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

かけがえのない存在

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(15)

今回は、第2章 エゴイズム  第3節 正義とエゴイズム 2 エゴイズムの問題 の続き(p.51~)である。

井上は、正義は道徳的価値のすべてではなく、一つの道徳的価値であると述べている。そして衡平の概念についても述べている。この点は後で見ることにして、先に、正のエゴイズムと負のエゴイズムの論述の続きを見ていこう。

 

正のエゴイズムと負のエゴイズム

簡単に言えば、負のエゴイズムとは「自分(たち)さえ良ければいい」という考えであり、正のエゴイズムとは「自分はどうでもよく、他者が良ければいい」という考えである。

井上は、いわゆる「利己主義者」及び「排他的利他主義者」を「負のエゴイスト」と呼び、「極限的利他主義者」を「正のエゴイスト」と呼んでいる。*1

正のエゴイズムが正義を限界づける一つの道徳的価値であるのに対し、負のエゴイズムにこの栄光はない。むしろ、利己主義者や排他的利他主義者は「不道徳」とみなされるのが常である。(p.51)

「自分(たち)さえ良ければいい」と考える人は「不道徳」であり、「他者が良ければいい」と考える人は自分にはマネのできない立派な人だ、と考えるのが普通の人の感覚だろう。

 

かけがえのない存在

普通の人間は何らかの正義観を持つ。しかし同時に、普通の人間にとって自己は「かけがえのない存在」である。それは、それが何かであるからではなく、それが存在すること自体によって、既に価値を持つ。(p.53)

自己が「かけがえのない存在」とは、貴重な存在であるとか、大切な人であるとか、優れた人間であるとかいうのではなく、いかに劣等感を持っていても、孤独だと思っていても、いまこの世に生きていて、死んでしまわない限り(社会の中で)身体を維持している(メシを食い、クソをたれる)存在である、他のものに代えることのできない存在である、という意味に理解しておく。そのような存在が「価値」を持っているか否かは、「価値」の定義による。いずれにせよ、「あえて自己を消去しない存在」である、その意味でエゴイストである、と言ってよい。

他者の存在にも同様な価値を承認することは、例えば愛におけるように可能である。しかし、この承認は必然的ではない。人は他者に対しては、彼が何かである、あるいは何かをする限りでのみ、価値を認めるという態度を貫徹できる。しかし自己に対してこの態度を貫徹することは、並の人間には不可能である。自己の存在自体を嫌悪する絶望的人間も例外ではない。自己が自己であるが故に、それに負の価値を帰している限り、彼のとっても自己はかけがえのない存在なのである。この「かけがえのなさ」を自己に感じている限りで、人はエゴイズムへの何らかの程度の傾きを持つ。大抵の人間は正義感覚を持つ一方で、正のエゴイストと負のエゴイストを自らの内に住まわせている。人はこの三者の間で揺れ、ときに「公正に」、ときに「利己的」に、まれに道徳的英雄として振舞う。(pp.53-54)

自己に「正の価値」を帰そうが「負の価値」を帰そうが、「あえて自己を消去しない存在」である限りにおいて、自己はエゴイストであることを免れない。

他者に対してはどうか? 彼が「何かである」あるいは「何かをする」という点において、「正の価値」や「負の価値」を帰す。彼が「ただ存在すること」(かけがえのない存在)に価値を認めることをしない。それは他者に対する自己がエゴイストだからであろう。

 

<烏・夢遊飛行/救いようのないエゴイスト(深瀬昌久)>

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https://www.fashion-press.net/news/17138

 

なぜエゴイストではいけないのか?

誰もが、負のエゴイスト(利己主義者&排他的利他主義者)を非難するだろう。では正のエゴイスト(極限的利他主義者、他者がよければそれでいい)は称賛に値するのか?

井上は次のように問う。

「私が私である」が故に、自己*2と他者との差別的取扱いを要求している点では、正のエゴイストと負のエゴイストは同じではないか。いずれも自分の欲求ではないか。(p.52)

確かに、「自己がどうあれ、他者がよければそれでいい」と思っている人を、外部から、客観的にみれば、「彼の欲求」であると言うことができよう。

他者を利するか害するかは、行為の偶然的帰結であって、内在的性質ではない。長期的に見れば、互いに利己的行為に徹する方が、利他的行為で献身しあうよりも、自己と他者双方にとって利益になることは充分考えられ得る。(p.52)

他者に良かれと思って為すことが、他者を利するか害するかは確定的ではない。偶然的帰結である、あるいは統計的に検証できるならば確率的である。

井上は、「互いに利己的行為に徹する方が、利他的行為で献身しあうよりも、自己と他者双方にとって利益になることは充分考えられる」と言う。確かに考えられよう。ただここは具体例が欲しいところである。

私は昨年来covid-19について、いろいろ考えているので、covid-19の例をあげてみよう(適切かどうかわからないが)。…「他人(ひと)にうつさないこと」を第一に考える人は、「利他主義者」と言ってよい。そのために、飲み歩かない、旅行に出かけない、スポーツ観戦をしない、コンサートに出かけない、美術館にいかない、帰省しない、テレワークをする、オンライン授業を受ける…。要は、他人(ひと)との接触を避ける、家に閉じこもる。止むを得ず外出するときはマスクをつける。三密を避ける。手洗いをする…。一方「利己主義者」は、「他人(ひと)からうつされないこと」を第一に考える。そのためにどうするか。上にあげた「利他主義者」と同じ行動をとる。それだけでなく、自分がうつされないように、他者に上記の行動をとることを要請(実質、強制)する

上記の行動をとらない人がいる。定義によれば、彼は「利他主義者」でも「利己主義者」でもない。ここで「飲み歩く人」を考えてみよう。通常、このような人を「非常識な利己主義者」と呼ぶ。だが果たしてそうだろうか。このように呼ぶ人は、「飲み歩く人」が「無症状ウイルス保有者で、他人(ひと)にうつす可能性のある人」(悪玉菌のようなもの)であると考えている。このように考えるのは、感染症専門家とマスメディアの報道によるところが大きいだろう。「飲み歩く人」が、「無症状ウイルス保有者である可能性は小さく、さらには他人(ひと)にうつす可能性は小さい。仮にうつしたとしても、うつされた人は風邪程度で済む」としたらどうだろう。そうであれば、免疫獲得で収束に向かう(もちろん重症化の可能性ある人は手当てする)。つまり、「長期的に見れば、互いに利己的行為に徹する方が、利他的行為で献身しあうよりも、自己と他者双方にとって利益になることは充分考えられ得る」。…これはウイルスと免疫に関する事実認定の問題であり、未解明事実に対する対処の仕方の問題だろう。

従って、他者の利益への阻害的影響を理由に、負のエゴイズムを定言的に(categorical)に禁止することはできない。同様に、他者の利益への貢献を理由にするならば、正のエゴイズムを正義に定言的に優越させることもできないはずである。(p.52)

covid-19の例で言い換えてみよう。他人(ひと)にうつすかもしれないからといって、定言的に(=無条件に、強制的に)利己主義的行動を禁止することはできない。(他人(ひと)にうつすかもしれないというのは「可能性」の話である)。また「他人(ひと)にうつさないこと」を定言的に(=無条件に、強制的に)優越させることもできない。私(たち)は「悪玉菌」のようなものであるから、移動してはならない、とする「正のエゴイズム」が称賛に値するものであるかどうか。…「他人(ひと)にうつさない」ための強制力ある行動ルールが受け入れられるためには、説得力ある論拠が必要である。

 

正義とは

負のエゴイズムに対する差別的禁圧さえ、懐疑の対象になりうるとするならば、エゴイズムそのものを禁止する正義は、一層強い懐疑の対象になり得る。

道徳的英雄[正のエゴイスト]の優位宣言を行うのは正義ではなく、正義を当事者の一人として含む倫理の全体法廷である。正義が負のエゴイズムを排除するのも、それが負であるからではなく、エゴイズムであるからである。個体的同一性における相違を理由にした差別一般を正義は禁止しているのである。(pp.52-53)

「正義を当事者の一人として含む倫理」とは、冒頭の「正義は道徳的価値のすべてではなく、一つの道徳的価値である」と同旨であろう。道徳的価値については後述。

引用中、赤字にした部分、「個体的同一性における相違を理由にした差別一般を正義は禁止している」が、井上の言いたいことの核心であると思う。

私(たち)、即ち「私 or/and私と一定の関係を持つ者」と異なることを理由とした差別一般を、正義は禁止しているのだということ。「私 or/and私と一定の関係を持つ者」と異なったとしても、「望ましい属性」を共有しているならば、差別してはならないのだということ。

 

隠れ利己主義者

しかし、普通の人間は負のエゴイズムに従う[利己的にふるまう]ときでも、その不道徳性の意識を完全には払拭できない。負のエゴイズムは彼らにとって隠さるべき「本音」であって、「建前」として打ち出し得るほどの正当性を持たない。世間で言う「利己主義者」とは負のエゴイズムの正当性を正面切って主張する者のことではなく、本音を隠すのが下手な者の謂である。世間の人々は一般的に本音において利己的である。(p.53)

世間で言う「利己主義者」とは、「本音を隠すのが下手な者」というのは、そのとおりだと思う。本音において利己的であっても、建前上は、利他的に振る舞ったり(慈善、寄付)、(口先だけ)利他的な言説を唱える者が「利己主義者」なのである。あからさまな利己主義者は非難されるが、隠れ利己主義者は非難されない。見栄えの良い料理がおいしいとは限らない。

世間の人々は一般的に本音において利己的であるとしても、正義の理念そのものに対して、先の問いに示されるような根本的懐疑を向けているわけではない。しかし、哲学の世界では、常識人のこの健全なる両義性を放棄して、エゴイズムそのものの公民権回復運動を大胆に展開する「変わり者」がときどき現出する。(p.54)

常識人は「健全なる両義性」を持っているのか、「変わり者」は本当に変わり者であるのか、次項以降に説明があるだろう。

 

※道徳的価値については次回にまわす。

*1:「排他的利他主義者」及び「極限的利他主義者」については、正義の女神は、卑劣漢を憎むと同時に、道徳的英雄にも嫉妬する(2021/9/4)参照。

*2:「自己と一定の関係を持つ存在者(自分が愛その他の感情を寄せている者たち)」(拡張された自己)を含む。(p.49)