ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』(7)
今回は、第2章 哲学のあらまし の続き(p.50~)である。
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いを巡り、思想家の見方は3つに分かれて現在に至っている、とホルトはいう。次の3つである。(緑字は、傍点の代わり)
- 楽観派…世界の存在には何らかの理由があるはずであり、それを見出せるだろう。
- 悲観派…世界が存在する理由はあるかもしれないが、確かなことは決してわかるまい。何故なら、恐らく私たちに見えるのは現実のごく一部でしかなく、その背後にある理由がわからないからか、現実に背後にある理由は、宇宙の本質を看破するためでなく、あくまで生き残るために自然が人間に与えてくれたもので、知性の及ばないところにあるからだ。
- 拒否派…世界が存在する理由などあるはずがない、したがってその問い自体が無意味である。
「理由」とは、「人間にとっての理由」なのか、それとも「植物にとっての理由」なのか、それとも「岩石にとっての理由」なのか? おそらく「人間にとっての理由」だろう。この問いは、既に「人間存在」を前提にしていると思われる。
「世界の存在」も前提されている。しかし「世界は存在しない」という立論も可能である。すべては夢幻、すべてはエネルギーの流れである、かもしれないではないか。
まあ普通に、「人間にとって、(人間を含む)物理世界(自然界)が存在するのには理由があるのか否か」という問いであると考えておこう。
(人間を含む)物理世界(自然界)を強調して、「世界の存在」を「人間の存在」と置き換えて考えてみても良い。そうすれば「人間の存在に、何らかの理由があるのか否か」という問いになる。
この問いはどのような方法で解明されるか?
例えばあなたは楽観派だとしよう。すると、存在の謎に迫る最も有望な方法は何だろうか?
- 神のような存在を、すべてが生まれ、ありつづけるのに不可欠なものとみなす、従来の有神論的方法だろうか。
- 量子宇宙論の考え方に基づいて、なぜ宇宙が真空からひょいと出現するに至ったのかを説明する科学的方法だろうか?
- 価値観を抽象的に考察することで、あるいは「全くの無というものはあり得ない」ということから世界が存在する理由を導こうとする、純粋な哲学的方法だろうか?
- 直接の啓示を通じて、宇宙が存在する根本的な理由を求める心を満たそうとする、何らかの神秘的方法だろうか?
「神」を持ってくるのは、あまりにも安易な方法(思考停止)であるように思える。
科学的方法が、数学を基礎にしているからと言って、それが「真実」であるという保証は何もないと思える。
哲学的方法は、「言葉」(抽象概念)をこねくり回してわかった気になっているだけであるように思える。
神秘的方法は、常人には、「狂気の世界」に入ることであるように思える。
では、楽観派には他に方法はないのだろうか?
ありていに言って、いくらかでも希望をもって存在の謎の解明にあたるためには、あらゆる角度から考えるしかない。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いはつかまえどころがない、あるいは全く支離滅裂だと思う人にはこう申し上げる。
知の進歩は往々にして、まさにそのような問いを、初めて発した者には予見できないやり方で洗練させることによってなされてきたのだ。
「知の進歩」の例としてどのようなものがあるか? 例えば、ソクラテス以前の哲学者たちが提起した問いがある。「万物は何からできているのか?」という問い。
この問いは「これまでに提起された問いの中でも最上の部類に属するものだった。この問いは近代科学の、驚くほど多くの事柄につながっている」(T.ウィリアムソン*1)。この問いを、答えようがないとして最初から退けていたら、その結果は「絶望や無教養、臆病、怠惰への意志薄弱で無用な降伏」に終わっていたことだろう。
問いに答えられないからといって、答えようがないとして最初から退けるのではなく、少なくとも、「問い」として「保留」しておきたい。W.ジェームズ*2のように「無から存在に至る論理的な架け橋は無い」などと決めつけるべきではない。
[W.ジェームズのように]そのような橋を築いてみもしないうちから、そんなことがわかるものだろうか? 一見、とても不可能だと思われる橋が、ほかにいくつもうまく架けられている。例えば、無生物から生物への橋(分子生物学のおかげ)、有限から無限への橋(数学の集合論のおかげ)などだ。現在、意識の問題に取り組んでいる者たちは、心と物質の橋渡しをしようと努めており、物理学を統一しようとしている者達は、物質と数学の橋渡しをしようと努めている。
「無」と「何か」を結ぶ橋のかすかな輪郭が見えてくるかもしれない。その橋が、ロバの橋*3だったということにならないよう願うばかりだ。
分子生物学や集合論や量子力学等々が「橋」となる可能性を、頭から(根拠なく)否定する必要はないだろう。
存在の謎を追求する動機は、知的なものとは限らない。感情的な動機だってありうる。…憂鬱や高揚といった気分は、たとえ対象があったとしても、存在そのものに関する気分のように思える。
では、感情の対象が世界全体ならば、どんな感情がふさわしいだろうか? この問いに関して、人は2つのタイプに分かれる。存在に対して笑顔を浮かべる人と、渋面をつくる人だ。
「存在に対して笑顔を浮かべる人と、渋面をつくる人」、これは面白い分類だ。「存在に対して笑顔を浮かべる人」については後で出てくるが、まずは「存在に対して渋面をつくる人」の代表として、ショーペンハウアー*4がとりあげられている。ホルトのショーペンハウアーの取り上げ方が面白い。ここではその一部だけ引用する。
「哲学は、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』の序曲のように、ニ短調の暗い短三和音(レ、ファ、ラ)で始まる」。…私たちは、あらゆる世界の中で最悪の世界に住んでいる。…私たちはみな、一見するとそれぞれに意志があるようだが、この宇宙意志の小さなかけらにすぎない。…意志というものは、欲求不満で惨めか、飽き足りてうんざりしているかのいずれかなのだ。…苦痛を脱する唯一の方法は、意志を消し去り、それによって涅槃の境地に入ることだ。…「意志もなく、表象もなく、世界もない。我々の前にあるのは、もちろん無のみ」という境地。
これだけでも、ショーペンハウアーはいかにも「陰鬱な思想家」というイメージが伝わる。私はショーペンハウアーの著作を読んでいないので何とも言えないのだが、たぶん「陰鬱な思想家」なのだろう。
ところが、
当のショーペンハウアーは、自分が説いた厭世的な禁欲主義をろくに実行しなかったことを言っておかなくてはならない。彼は飲食の快楽を好み、数々の情事を楽しみ、けんか好きで、強欲で、自分の名声が気になって仕方がなかった。それに、サンスクリット語で「世界の魂」を意味するアトマという名のプードルも飼っていた。
「ああ、そうかもね」という感じで、奇妙に納得する。学者とはこういう人種かもしれないと思ったりもする。*5
「哲学は、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』の序曲のように、ニ短調の暗い短三和音(レ、ファ、ラ)で始まる」という言葉には、何か違和感があった。オペラ『ドン・ジョヴァンニ』は、モーツァルトが1787年に作曲した作品であり、ショーペンハウアーがその内容を知らなかったとは考えられない。
私は、今回はじめて『ドン・ジョヴァンニ』がどういう作品なのか調べてみたのだが、次の解説が面白い。
脚本がこのような内容(要は、女たらしの話)のTVドラマなら、音楽がもっともらしくても、バカらしくて見る気がしないだろう。ところが、モーツァルト作曲のオペラとなると、「格調高い作品」となるのだろうか。
ショーペンハウアーが「哲学は、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』の序曲のように、ニ短調の暗い短三和音(レ、ファ、ラ)で始まる」と言ったのには、「女たらしの話」に共感するところがあったからなのだろうか。
20世紀には、ショーペンハウアーのような<存在への難色>派が、少なくとも文学界では優位だった。難色派が特に集中していたのが、パリの大通りだ。例えば、ルーマニア人の作家シオラン*6はパリにやって来てから、実存的遊歩者(フラヌール)とでも言うべき存在に生まれ変わった。自分が選んだパリという都市の魅力をもってしても、虚無的な絶望は和らげられなかった。シオランはこう書いている。「存在するのは無であること、物事が見かけの状態にも値しないことが分ったら、あなたはもはや救われる必要はない。あなたは救われており、永遠に惨めなのだ」。また、やはり故国を離れてパリに移り住んだベケットも、同じく存在の虚しさに苛まれた。ベケットは知りたがった。なぜ宇宙は私たちに無関心なのか? なぜ私たちは、宇宙の実に微々たる一部なのか? なぜそもそも世界があるのか?
フラヌール(Flaneur、実存的遊歩者)は、覚えておきたい言葉だ。フラヌールとは、「ベンヤミンが用いて広まった、近代の都市を物見遊山的に見物して回る、遊民的人物の呼称(訳注)」だそうだ。しかし、物見遊山はちょっと違うと思う。「実存的遊歩者」が良いだろう。
故郷を離れて都市(東京など)に初めて出てきた若者は、「虚無的な絶望」、「存在の虚しさ」を感じることがある。
<The Art of Flâneur By Sarah Coolidge>
https://www.catranslation.org/blog-post/the-art-of-flaneur/
「眠れない夜に読みたい絶望に効くシオランの名著」より、シオランの言葉を引用する。
- もしこの本を書かなかったら、私は私の夜に終止符を打っていたにちがいない。
- 生には何ひとつ意味がないばかりではない、そもそも意味をもちえないのだ。
- ただひとつの、本物の不運、それはこの世に生まれ出るという不運だ。
- ぐっすりと眠った夜は、あたかも存在しなかったかのような夜だ。私たちが眼を閉じることのなかった夜、それだけが記憶に灼きついている。夜とは、眠られぬ夜のことだ。
ぐっすりと眠った夜には、何も存在しない。
*1:ティモシー・ウィリアムソン(1955 - )…イギリスの哲学者。オックスフォード大学教授。認識論、哲学的論理学、形而上学、言語哲学を専門とし、ファジィ論理の研究で知られる。(Wikipedia)
*2:ウィリアム・ジェームズ(1842 - 1910)…アメリカ合衆国の哲学者、心理学者。意識の流れの理論を提唱した。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。(Wikipedia)
*3:ロバの橋とは素人には理解の難しい難問(訳注)。ロバの橋については、http://mathpath.jugem.jp/?cid=7 参照。
*4:ショーペンハウアー(1788 - 1860)…ドイツの哲学者。世界は自我の表象であり、その根底にはたらく盲目的な生存意志は絶えず満たされない欲望を追求するために人生は苦になると説き、この苦を免れるには意志否定によるほかはないと主張した。主著「意志と表象としての世界」。(デジタル大辞泉)
*5:但し、私はその行動如何にかかわらず、書かれたもののみで判断する。行動との矛盾があったとしても、それはまた別の話だろう。
*6:エミール・シオラン(1911 - 1995)…ルーマニアの作家、思想家。若年期のエクスタシー経験と、メランコリー、鬱、不眠など、生涯にわたる精神的苦悩をもとに特異なニヒリズム的思索を展開した。(Wikipedia)