浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

競争を伴わないスポーツ(気晴らし、楽しみ)【デポルターレ】(上)

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(24

今回は、第4章 競争はもっと楽しいものなのだろうか-スポーツ、遊び、娯楽について の続き(p.146~)である。

「競争を伴う気晴らし」を奨励することの論拠(利点)には、以下の〇で示したようなものもある。

実存的な肯定…競争を行っている人間は、完璧さを味わい、自由を主張し、死を克服する。…ノバックによれば、勝利者は、「存在するもの」と「存在していないもの」とのはざまで苦闘している。…「暗闘に抗い、自由を実現する」。競争を行う人間は、「これまで以上の自分になり、完璧さを求める極めて人間らしい熱望をあらわにする」。

勝利のスリル…誰か他人を打ち負かすということは、本質的で、あくことのない満足を経験できることなのである。

「実存的な肯定」は、「頭の良い、文学的」スポーツ評論家が言いそうな言葉である。コーンは、彼らを「神秘的な言葉を用いるスポーツ狂」と呼んでいる。

競争と挑戦とを同じレベルで考える誤りを犯してはならない。多くのスポーツは、興奮をそそることができ、個人や集団の能力や技術を試すことができるのであり、調和や幸福をもたらすことができ、健康的な運動や、この無味乾燥な世の中に活力を与える変化をもたらしたり、人びとを自然に再び結び付け、最高の人間の価値を……あらわすことができる。けれども、競争を必要としないのである。(W.サドラー)

多くのスポーツの肯定的側面は、「競争」によるものではなく、「挑戦」によるものである。

チーム・ワークによって生まれる同士愛は、まさに協力的な活動がもたらしてくれる恩恵であるが、その本質は、共通の目標に向かって力を結集するということである。集団間の競争、共通の敵が生まれること、つまり味方/敵のダイナミクスの創出が、集団の感覚を養っていく上で必要不可欠なわけではない。

「共通の目標に向かって力を結集する」のに、「共通の敵」を必要としない。(富国強兵、ナショナリズムを想起する)

競争的なゲームは、まさに常用癖が付いてしまうので、気晴らし[のゲーム]も、勝利する可能性が無ければつまらないものになってしまうのである。「競争の哲学に毒されているのは仕事だけではない。余暇も、全く同じように毒されている。静かで、神経を休めてくれるような余暇は、退屈なものに思えてくるのだ」と、B.ラッセルは述べている。

B.ラッセルの「幸福論」(The Conquest of Happiness)で述べられているそうだ。

達成感を与えてやったり、ウィット[機転]があるかどうかを試すために、スポーツに頼るのは見当違いである。そうする代わりに、客観的な基準に目を向けたり、自分の以前の記録を超えようとすることができるはずである。…このような競争を意識しない努力は、とても満足を与えてくれるのである。そして、協力的なゲームも、同じように技術とスタミナを必要とするわけであり、勝者と敗者がいなくとも結果的には活力を失うことなど全くないように思われる。

他者と比較して優れていると喜んだり、劣っていると嘆く者は、「競争を意識しない努力」、「協力的なゲーム」により満足感・活力を得ることが望ましいだろう。

競争に勝利することによってもたらされる純粋な喜びなどというのは、狂気を孕んだ興奮状態の中で他人を打ちのめすという喜び極めて近いものなのだとだけ言っておこう。

このような喜びは決して奨励されるものではないだろう。しかし、「他人を打ちのめす喜び≒他人を叩き殺す喜び」なる「狂気」は、生命体の生存に内在しているのかもしれない。

個人としても、社会のメンバーとしても、もっと建設的なもの(あるいは少なくとも破壊的でないもの)を追い求めることによって、楽しみを得たほうが良い。自分たち自身のために、また子供たちのために行う自由時間の活動は、あまり褒められないような好み[競争に勝つ]を反映したり、永続させていくものであってはならないのである。

楽しみは、競争に勝つことによってではなく、建設的なものの追求によって得たいものである。

とても多くの人たちは、そのような活動[競争的なスポーツ]が、まさに競争的なものだからこそ嫌っているのである。「多くの子供たちにとって、競争的なスポーツは、敗北者の製造工場の役割を果たすのであり、『粗悪品』を効率よく排除するだけでなく、『優良品』の多くもはじき出してしまうのである。北アメリカでは、スポーツ組織に登録された15歳までの参加者のうち、80~90%が辞めてしまうのは珍しいことではない」(T.オーリック)

「多くの人たちは競争的なものを嫌っている」というのは、確かなことのように思える。競争的な職場、競争的な子供の遊びを想起しよう。競争的なスポーツ(ゲーム)は、敗北者の製造工場の役割を果たす。…差別、格差。

競争的なスポーツ(ゲーム)が、優良品をもはじき出すというのは、勝利を得ようとする者が評価され、業績をあげようとする者が評価されないということか。

競争を擁護する人たちの多くは、実は「適者生存」の倫理に訴えながら、競争を促しているのである。学校の体育の授業のカリキュラムは、とても優れたスポーツ選手のいるところに財産を集中させることで、全く同じことをこっそりと行っている。

「適者生存」は、「環境適応」か「弱肉強食」か。「競争」はどちらに近いか。

例えば、リトル・リーグの野球のように、子供たち向けのスポーツ・プログラムが極めて競争的だと嘆く多くの雑誌の記事や一般受けする本が、毎年出版されている。状況は、こうしたところまで来ているのである。また自分たちの代わりに勝利を追求する子供たちの自尊心を傷つけるような、血迷って口角泡を飛ばすような両親の光景は、勿論ぞっとさせるものであるし、その結果もたらされるごまかしや暴力については、この後の章で考察してみたい。

競争の信奉者は、勝利者であれ、敗北者であれ、その子供に自らの夢を託す。子供たちは、「血迷って口角泡を飛ばす親」の犠牲者なのだろう。

スポーツの競争的な面が、将来数えきれないほど多くの元スポーツ選手を生みだしてしまうだろうと私が強調するのは、それが悲劇的なものだと言いたいのではなく、競争と楽しみとを結びつけることがそもそも見せかけのものであると言いたいのである。

「競争」と「楽しみ」の結びつきは見せかけのものに過ぎない。

いくつかの社会[異文化]の構成員が仕事において協力し合うだけではなく、競争を伴わない気晴らしを楽しんでいる…このことが示しているのは、競争が楽しい時間を過ごすためには不可欠の一部なのだとみなすように、社会化されているということである。

競争を伴わない楽しい気晴らしがある。楽しい気晴らしに競争は必要としない。「社会化されている」というのは、「教育されている」ということである。

殆どのリベラルな論者たちは、それとなくか、はっきりとかは別にして、競争を伴う気晴らしに反対する際に、勝利するということをあまり強調しないようにすべきだと指摘している。例えばスコアをつけるのをやめて、勝つことから楽しむことに焦点を移すようにすることはできるのである。

相対評価(そして順位付け)は、競争・勝敗に結びつく。絶対評価(他者と比較しない)は、「楽しみ」になる。相対評価(そして順位付け)がやむを得ないというとき、それは何故なのかを考えてみる必要があろう。

ゴルフでスコアをつけるのをやめるのは、比較的たやすい。これは、二人かそれ以上の人数で、一人ひとりが順番に成績を上げようと努力し、最後にそれぞれの成績を比較するものだからである。

「個人の運動」に競争を持ち込めば、「個人競技」となる。従って、「個人競技」から競争の要素を取り除けば「個人の運動」になり、スポーツ庁の言う「スポーツ」*1に近いものとなろう。

テニスは、一人の選手だけが最後に勝つようにできているのであり、それだけではなく、一つ一つのプレーがうまくいくときには、相手が返せないような球を打つことで成り立っている。

テニスは一人ではできない。相手がいる。ラリーで終われば「スポーツ」だろうが、競争(勝敗)が入ると「スポーツ」から離れ「競技」となる。

すべてのゲームは、障害があってもものともせず、目標を達成することを意味している。例えば、フットボールでは、目標は一つの位置からもう一方の位置までボールを動かすことであり、障害になるのは相手チームである。

フットボール(ボールを蹴る球技の総称、サッカー、ラグビーアメリカンフットボールなど)は、団体「競技」であり、チームプレイを必要とする。チーム内の協力、チーム間の競争である。

競争を伴わないゲームでは、障害になるのは、他人や人々というより、課題そのものが元々含んでいるものである。目標を達成するために協調しあう努力が必要とされるならば、ゲームは、競争を伴わないだけではなく、明らかに協力的なものになる。…競争を伴わないゲームは、ほとんどがルールに左右される。とはいっても、ルールが存在するからといって、競争が存在するというわけではないのである。

競争を伴うゲーム、競争を伴わないゲーム、いずれも「ルール」との関係が重要である。そしてそのルールを誰が定めたのかも。

協力的なボーリングでは、目的は「10本のピンを他のプレイヤーと同じ回数で倒すこと」である。実際、とても挑戦しがいのあるものである。…また、参加者全員があるスコアに達するように試みることも、また、すべての参加者が共同して制限時間に挑むことも必要とされている。

既定のルールにとらわれないで、自らルールを定め、チャレンジすることは「楽しい」ものである。出来なければできないで、「まあ、しょうがないか」と苦笑いしておればいい。

「レシーブ・アンド・ラン」バレーボールでは、ネット越しに球を打ったプレイヤーは、すぐに反対側のコートの相手チームに移動するのである。「両方のチームに共通の目的は、できるだけ少ない球数で、チームを完全に交替させることである」。

「レシーブ・アンド・ラン」バレーボールは初めて聞いたが、これは面白そうなゲームである。ルールの変更で、楽しいゲームになる。そういえば、子どもの頃、よくルールを変更したり新たに作ったりして遊んだものである。

「敵」が「パートナー」になるという意義に注目して欲しい。これは、単に意味を変化させただけではなく、ゲーム全体のダイナミズムが変化し、ほかのプレイヤーに対する態度も変化するのである。

「敵」とみなしていたものを、「パートナー」(相棒、仲間)と捉えること、そうすれば新しい世界が見えてくる。

最も友好的なゲームであるテニスの場合も、ゲーム本来の構造に影響されざるを得ない。つまり、二人のプレイヤーは、それぞれが相手を敗北に追いやることを求める活動を行うのである。だが、協力的なゲームに参加する幸せな感覚、喜びの感覚は、自然に他の参加者が成功するのを受け入れることにつながる。こうした感覚は、競争的なゲームでは、おそらくそれとは気づかないまま、他の参加者に対して常日頃取っている構えをきっぱりと棄てさせてくれるだろう。言い換えるならば、協力的な気晴らし[ゲーム]は、なぜ競争が思ったほど楽しいものではなく、また無害でもないのかを追体験させてくれるのである。

競争的な気晴らし[ゲーム]と協力的な気晴らし[ゲーム]は、はっきりと区分したほうがいいだろう。なお、気晴らしとは、ストレスからの解放ではない。もっと積極的な楽しみ/愉しみである。デポルターレ(deportare)。

 

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*1:

スポーツ庁が考える「スポーツ」とは?…「スポーツ」という言葉が示す範囲は本来とても広いもので、決して競技スポーツに限るものではありません。スポーツ庁が定める「第二期スポーツ基本計画」では、スポーツとは「身体を動かすという人間の本源的な欲求に応え、精神的充足をもたらすもの」と定義されています。たとえば、朝の体操から何気ない散歩ランニング、気分転換のサイクリングから、家族や気の合う仲間と行くハイキング海水浴など、その範疇はさまざま。つまり、スポーツとは一部の競技選手や運動に自信がある人だけのものではなく、それぞれの適性や志向に応じて、自由に楽しむことができる「みんなのもの」なのです。

みなさんはスポーツという言葉の語源をご存知でしょうか? スポーツ史という分野の研究によれば、英語の「Sport」は19~20世紀にかけて世界で一般化した言葉であり、その由来はラテン語の「deportare」(デポルターレ)という単語だとされています。デポルターレとは、「運び去る、運搬する」の意。転じて、精神的な次元の移動・転換、やがて「義務からの気分転換、元気の回復」、仕事や家事といった「日々の生活から離れる」気晴らしや遊び、楽しみ、休養といった要素を指します。

つまりこれらがスポーツの本質であり、人生を楽しく、健康的で生き生きとしたものにするために、より楽しむために勝利を追及するもよし、自分ペースで楽しむもよし、誰もが自由に身体を動かし、自由に観戦し、楽しめるものであるべきなのです。(https://sports.go.jp/special/policy/meaning-of-sport-and-deportare.html