浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「個」のエゴイズム 「狂信者」と「検閲官」

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(17)

今回は、第2章 エゴイズム  第3節 正義とエゴイズム 2 エゴイズムの問題 の続き(p.54~)である。

井上は、面白い例を示しているので(p.58)、これを最初にとりあげよう。(傍点は緑字にした)

ある会社の高給の秘書のポストにX,Yの2女性が応募している。採用されるのは1人だけである。Xは才能は豊かであるが器量はあまり良くない。Yは自他ともに認める美人であるが才知に欠ける。この会社の2人の共同経営者AとBがどちらを採用するかで対立した。Aは「は才女より美女が好きだからYを採る」と言い張り、Bは「は才能を美貌より好むからXを採る」と頑強に主張した。

本節の話題は、「正義とエゴイズム」であるが、これは何の例示なのか? 会社としては、どちらを秘書として採用したらよいのだろうか? (以下を読む前に考えてみて下さい)

f:id:shoyo3:20220121165144j:plain

https://www.kurihaku.jp/2023/special/interview/471/

 

「個」のエゴイズムの優位の2つの論拠

「エゴイズムの哲学」の提唱者たちは、種的・類的エゴイズムと「個」のエゴイズムとの間に原理的差異を認めないだけではなく、少なくとも次のような二つの考慮に基づき、「個」のエゴイズムの優位を説く。

(1)合理主義的エゴイズム(醒めた合理主義)

神、人間性、愛、人倫、正義、人道、民族精神、真理、善、美、法、権利、自由、理性、国家 等、一切の抽象的理念は、それを信奉する者を、「狂信者」や「憑かれし者」に変え、人びとを苛烈な闘争と偽善に導く。人はこれらの抽象的理念に酔ったとき、「素面」(しらふ)の個人としてなら到底できない残虐な行為を、他者に対して易々とやってのける。

人びとがこれらの理念に酔っているときほど、自己の世俗的・利己的欲望を、抽象的理念の美名で粉飾しながら追求する偽善家が跋扈しやすい時はない。かかる主張の例証は、宗教戦争を始めとして人間の歴史がいやというほど提供してくれる。歴史を持ち出すまでもなく、様々な美名を掲げた国家エゴが衝突する現在の状況を見渡すだけでも充分である。何らかの抽象的「本質」を要求の正当化根拠とする種的・類的エゴイズムも、同様な帰結を避けられない。しかし、各人がこのような「本質」によって自分の要求を正当化することなく、それが自分の欲望に過ぎないことをあからさまに承認した上で、醒めた目でそれの実現のために適切な手段を追求するならば、即ち、各人が「個」のエゴイズムに徹するならば、かえって、無駄な血は流されず、偽善が蔓延することもない

井上は、この論拠に基づくエゴイズムを「合理主義的エゴイズム」と呼んでいる、なぜ「合理主義」なのか?

正義人道自由などの抽象的理念(本質)によって自分の要求を正当化するのではなく、「醒めた目」でその実現のための適切な手段を追求しようとするならば、それは「合理主義」と呼んでもよい。正義人道自由などの抽象的理念(本質)を旗印にすることによって、戦争や兵器開発競争や強制権力の行使などを「合理化」しようとすれば、流血(殺人)や偽善の蔓延は避けられないだろう。

などの抽象的理念(本質)を盲目的に信奉する者は、「狂信者」であり「憑かれし者」である。オウム真理教が思い出される。現代社会に生きる若者たちの不安や社会の不条理に対する反抗が、抽象的理念を盲目的に信奉する「狂信者」、「憑かれし者」を産んだのであろう。それは形を変え、今も続いていると言えよう。

 

(2)実存主義的エゴイズム(本質からの自由)

個人が単に「自分が今それを欲するから」ある行為を実行するというだけでは済まされず、常に自己の行為を何らかの種的・類的本質への言及によって正当化しなければならないとしたら、これらの「本質」は個人を超えた絶対的価値・規範と化し、逆に個人は「本質」から「疎外」され、「本質」の前ではみすぼらしい無価値なものとなる。そしてこれらの規範化された超越的本質は個人の前に専制君主として立ち現れ、個人のなにものにも囚われない自由な創造的活動を圧殺する「固定観念」となる。

「種的・類的本質=規範化された超越的本質=個人を超えた絶対的価値」は、個人の前に専制君主として立ち現れる。個人は、みすぼらしい無価値なものとなる。この意味での専制君主は現存している。指揮命令系統が確立している組織においては、上司の命令に背くことは許されない。その意味では上司は専制君主である。*1

例えば、「人間を殺すのは許されないが、お前は人間性に悖る(もとる)行為をした以上、当然死に値する」と言われるとき、そこで想定されている「人間性」あるいは「人間なるもの」とは、具体的個人が誰でも既にそれである何かではなく、そうあるべき何か、順守さるべき規範、実現さるべき価値である。

「人間」あるいは「人間性」をいかに定義するか? 「ワクチンを接種しない者は、人間性に悖る」として、厳罰に処するという法は、順守さるべき規範となりうるか? 「防衛戦争を肯定しない者は、人間性に悖る」として、厳罰に処するという法は、順守さるべき規範となりうるか?

一旦、「人間性」や「人間」が超越的な価値・規範と化すや、それらは具体的人間の創造性を圧殺する絶対者となる。様々な生活実験、様々な芸術的表現行為、様々な知的・思想的冒険など人間の可能性を探る様々な活動が「人間性に反する」、「非人間的」、「人間の尊厳を損なう」等々と非難され、圧迫される。しかし、各個人がいかなる抽象的本質をももはや行動の正当化根拠とはせず、「個」のエゴイズムに徹するならば、各人は固定観念から解放され、彼の思想と感性は初めて完全な自由を得る。思想の自由とは、国家権力が侵害したり保障したりできるものではない。固定観念としての抽象的本質こそが、思想の真の検閲官であり、これらから解放されて初めて、真の思想の自由が得られる。この時初めて、自由な創造者としての各個人の「自己享受」が可能になるのである。

偏狭な人間性の定義に基づく法は、専制君主=絶対者となり、「人間の可能性を探る様々な活動」を圧迫する。「人間の可能性を探る様々な活動」とは、「様々な生活実験、様々な芸術的表現行為、様々な知的・思想的冒険など」である。逆に、「人間の可能性を探る様々な活動」を圧迫する法は、「偏狭な人間性の定義」に基づくものであると言っても良い。

「種的・類的本質=規範化された超越的本質=個人を超えた絶対的価値=抽象的本質」(神、人間性、愛、人倫、正義、人道、民族精神、真理、善、美、法、権利、自由、理性、国家 等)は、思想の検閲官となる。思想の自由は、そのような検閲から解放されてこそ得られる。*2

種的・類的エゴイズム批判

エゴイズムの哲学は、正義理念に対する懐疑にとどまらず、より積極的に正義理念そのものを批判する。合理主義的エゴイズムは正義の「非合理性」を、実存主義的エゴイズムは正義の「権力性」を剔抉(てっけつ)する。両者の批判の共通の基盤は、正義理念が実体化された「本質」たる「種」や「類」のエゴイズムに人を帰依させるという主張である。

「個」のエゴイズムは、以上2つの論拠に基づき、正義理念そのものを批判する。正義理念の(1)非合理性と(2)権力性 を批判するのである。

 

井上は、「種的・類的エゴイズム」と異なるエゴイズムを3つあげている。①集団的エゴイズム、②全体化された排他的利他主義、③属性化された排他的利他主義 の3つである。

集団的エゴイズム

共通の利害を持つ「個」のエゴイストたちが連合し、各々が自己の欲求の実現の手段としてその集団の共通の利害を、その集団の内外の個人や他の集団の利害に優先させるときに成立する。それは「個」のエゴイズムの同一平面上における延長である、そこではエゴイストであるのはあくまでもその集団に属する諸個人であって、その集団自体が成員たる諸個人を超越した実体と化してそれ自身のために成員に献身と犠牲を要求するわけではない。各成員はそれが自己の欲求を実現するのに役立つとみなす限りで、その集団の排他的な共通利益に貢献するのである。

企業間競争を思い浮かべればよい。企業間競争を是認するイデオロギーの下では、当該企業に属する個人が、自己の要求を実現するのに役立つとみなす限りで、その企業の排他的な共通利益に貢献する。

これに対し、種的・類的エゴイズムにおいては、真のエゴイストであるのは種的・類的エゴイスト個人ではなく、まさに「種」や「類」自体である。これらの実体化された種・類が、それがそれであるが故に、それに属する個体を他の種・類に属する個体とは違った仕方で扱うことを、諸個人に彼らの意志に関わりなく要求するのである。

正義や人道や自由などの抽象的理念が実体化されたとき、実体化された種・類(集団)は、それに属する個体を、それに属さない個人とは異なった仕方で扱う。…簡単に言えば、ある集団が特定の抽象的理念を法制化するとき、その特定の抽象的理念に対する賛否に関わらず、法遵守(コンプライアンス)が要求される、ということか。

 

全体化された排他的利他主義

特定の民族や国家など、特定の団体に向けられた排他的利他主義。この「全体化された」排他的利他主義においては、そのために特別の取扱いが要求されているのは特定の集合人格である。これは属性のみによる定義が不可能であり、「日本国」や「ドイツ民族」など、何らかの固有名詞(あるいは、何らかの指標的表現を含む確定記述)によって指示されざるを得ないものである。それは言わば「抽象的個体」であり、「国家なるもの」や「人間なるもの」のごとき、実体化された本質的属性ではない

これに対し、種的・類的エゴイズムはまさにこのような実体化された属性としての「種」や「類」に関わるものである。いずれにせよ、「全体化された」排他的利他主義者は、特定団体を、自分がそれと特別な関係を持つが故に、特別に扱うことを要求している以上、隠れもなき「個」のエゴイストである。

排他的利他主義とは、「自己または自己と一定の関係を持つ存在者(自分が愛その他の感情を寄せている者たち)のために、他者の場合とは違った特別の取扱いを要求する者」であった。*3

通常、利他主義は個人(「特定の他者」や「他者一般」)に対して言われようが、ここで言う「全体化された」とは、日本国民やドイツ民族やアジア人や東京都民のような集合体(特定団体)でる。このような特定団体、特定集合体、特定組織の成員のみの利益を優先させる(排他的利他主義イデオロギーは、「個」のエゴイズムと言えよう。

 

属性化された排他的利他主義

何らかの「本質的属性」に自分が特別な感情を寄せているが故に、その属性によって規定される種・類を、他の種・類とは違った仕方で取り扱うことを要求する者の立場である。

井上は、ここで冒頭の秘書採用の例示をしている。

[冒頭の引用の続き]この場合、A・B[共同経営者]の2人とも「属性化された」排他的利他主義者であり、しかも正義の禁止に抵触している。何故なら、A・Bともに自分が好む属性の採用を要求している点で同様であるにも拘らず、両者とも一方の属性を好んでいるのが自分であり、他方の属性を好んでいるのが他者であることだけを理由にして、自己の要求を相手の要求に優先させようとしているからである。

ここで「属性」とは、「美しさ」という属性あるいは「知性」という属性である。Aは「美しさ」という属性を好んでいる。「美しさ」という属性を有する女性に特別の取扱いを要求する(利他)。同様にBは「知性」という属性を好んでいる。「知性」という属性を有する女性に特別の取扱いを要求する(利他)。この意味でA・Bは、属性化された排他的利他主義者と呼ばれる。

しかし、もしこの時、両者が問題の属性に対する自己の選好ではなく、その属性の内在的価値を自己の要求が優先さるべきことの根拠にしていたならば、即ち、「女性美への献身は男子の義務だから」とか「地位は知性に比例すべきだから」とかの理由付けをしていたならば、彼らは種的・類的エゴイストとして、即ち、「女性美なるもの」に憑かれた者と「知性なるもの」の狂信者として、行動したことになる。「属性化された」排他的利他主義者は依然「個」のエゴイストであり、自分がそれを欲する限りでのみある属性に特権的地位を与えるのに対し、種的・類的エゴイストは「本質的」属性が自己の欲求から独立した内在的価値を持つことを承認せざるを得ないのである。言わば、種や類は前者にとっては「愛された本質」であるが、後者にとっては「負わされた本質」なのである。

ただ単に「美しさ」や「知性」という属性に対する選好(好み)ではなく、属性の内在的価値(抽象的理念)を要求の根拠とすれば「もっともらしい」が、それが自らの信念となり、異なる意見を排除するならば、「憑かれし者」とか「狂信者」と言われても仕方ないだろう。

**********

秘書採用の例は、「属性化された排他的利他主義」の説明のための例であり、現実にはこのような例はまず考えられない。では、美貌か知性かという選択が全くなくなったかというとそうではない*4。一般的に言って、配置される職場(職種)によって、美貌や知性は、考慮要素の一つである。バランスも重要である。これが、冒頭の質問に対する私の答えである。

*1:もちろん、これは一面的な物言いである。この話題は「組織論」であり、いずれ適切な著作を読んでみたい。

*2:このような主張は、リバタリアニズム自由至上主義)だろう。私はこの主張を必ずしも肯定しているわけではない。

*3:義の女神は、卑劣漢を憎むと同時に、道徳的英雄にも嫉妬する(2021/9/4)参照。

*4:女性を例にとるのが気に入らない人は、「イケメン」と「ブサメン」の選択と考えればよい。