浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

存在に対して笑顔を浮かべる人たち

ジム・ホルト『世界はなぜ「ある」のか』(8)

今回は、第2章 哲学のあらまし の続き(p.56~)である。

前回は、「存在に対して渋面をつくる人」(「存在への難色」派)として、ショーペンハウアーが挙げられていたが、J.P.サルトルやJ.アップダイクもそうであるらしい。ここでは引用を省略し、「存在に対して笑顔を浮かべる人」に進む。

おそらく、世界が「善」であることの最も熱狂的な支持の表明は、文学でも哲学でもなく、音楽という形式で為されているように思われる。その好例が、ハイドンが作曲したオラトリオ『天地創造』だ。曲の冒頭では、全ては音楽の混沌(カオス)で、不気味な和音と断片的なメロディが混じり合っている。それから、創造の瞬間が訪れる。神が「光あれ!」と宣言すると[こうして光があった」という応答があり、オーケストラと合唱が力強いハ長調の持続する長三和音(ド、ミ、ソ)を突然歌い出して、奇跡を表現する。陰気なショーペンハウアーの『短三和音』とは対照的だ。

「世界」を表現するには、確かに「言葉」ではなく「音」のほうがふさわしい気がする。ホルトは、ハイドンのオラトリオ『天地創造』をとりあげている。オラトリオとは何か。車田和寿の解説を聞いてみよう。

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  • 声楽作品は、世俗作品と宗教作品に分けることができる。
  • 世俗作品を代表するのが、オペラ、オペレッタ、ミュージカルである。
  • 宗教作品を代表するのがオラトリオである。他に、ミサ曲、レクイエム、受難曲などがある。オラトリオは、その中でも特に大規模な作品である。
  • オラトリオは、劇的、抒情的、宗教的な歌詞を題材にしている。
  • オラトリオは、キリスト教を題材にした音楽劇である。
  • オラトリオは、オペラと違い、舞台や衣装を用いて演技をすることが無い。教会や演奏会場で、演奏会形式で行う。
  • オラトリオは、合唱に重点が置かれている。
  • 【まとめ】オラトリオは、宗教的な題材を用い、コンサートホールや教会で演奏される合唱に重点を置いた大規模な声楽作品である。

以上は、オラトリオの初級者向けの解説である。(動画では、中・上級者向けの解説もある)

続いて、(指揮者)大野和士ハイドン天地創造》の解説を聞いてみよう。 

Part1:https://www.youtube.com/watch?v=C76DZsQs_OU

Part2:https://www.youtube.com/watch?v=U-QNyYVrnlA

 

以上を頭において、バーンスタイン指揮の《天地創造》を聴いてみる。(予備知識が無いと面白くない)

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日本語字幕のある動画は、下記参照。

https://www.youtube.com/watch?v=G2QWlkmKuz8

 

しかしながら、私にはこのオラトリオ『天地創造』よりは、林英哲の『曙光』の方がはるかに良い。詞(言葉)はいらない。

shoyo3.hatenablog.com

 

「価値支配主義者」*1は、宇宙がビッグバンによって出現したのは、善の必要性に応えるためかもしれないと考えている。それが正しければ、世界やその中にいる私たちの存在は、私たちの目に映るより好ましいのかもしれない。私たちは注意して、隠れた調和(まだら)なもの*2のように、世界にある捉えにくい美点を探すべきだろう。

宇宙/世界には、「隠れた調和」や「斑なもの」という「真・善・美」がある。そこには、創造主の「善」があるというのだろうか。

【斑の美-天目茶碗】

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「何かがある」というときのあり方は一通りではないーすべてが青い世界、クリームチーズでできた世界、その他もろもろだ。しかし、「何もない」は一通りしかない。宇宙宝くじで当たる確率が、可能な現実のどれにも等しく割り当てられているとすると、一つしかない「何もない」よりも、多くの「何かがある」の一つが当たる見込みの方が圧倒的に高い。もし現実について、この行き当たりばったりの運という見方が正しいと判明したら、私たちは存在に対する評価をやや下方修正しなくてはならないだろう。というのは、現実が宇宙宝くじの結果ならば、勝利を収める世界は、際立って良くも悪くもなく、際立って整然とも雑然ともしておらず、際立って美しくも醜くもなく、中程度のものだと思われるからだ。その理由は、あり得る世界のうち、中程度の世界がもっともありふれていて、本当に素晴らしいか酷い世界はまれにしかないからだ。

現実の世界が「行き当たりばったりの運」で創造されたという説は話としては面白いが、「何もない世界」が99%の面積を占めていて、「何かがある世界」が1%の面積(その中に多数の「何かがある世界」がある)を占めているとすれば、弓の矢は「何もない世界」を射るだろう。また、「何かがある世界」を固定的なものとしていることもおかしい。

一方、もし存在の謎に対する答えが、有神論か有神論に準ずるものだとわかり、創造主のようなものが関わると判明したら、世界に関する見方は、その創造主の性質によって左右されるだろう。主な一神教では、この上なく善良で全能な神によって世界は創造されたと考える。それが本当ならば、この世界は物理的に不完全(例えば、素粒子の種類があまりにも多い、急激に収縮する星がある)なうえ、道徳的にも不完全である(例えば、子供ががんにかかる、ホロコーストが起こるという、ひどいことがある)にも拘らず、世界を多少とも好意的に見なくてはならない。だが、これとは異なる創造の教義を抱いてきた宗教もある。例えば、西暦紀元の初期に盛んだった異端の思想傾向であるグノーシス主義では、物質世界を作り出したのは、情け深い紙ではなく邪悪な創造主だと考えた。従って、その信者は、自分たちが物質的な現実を忌み嫌うのは当然だと思った。

「創造主」(人格神ではない)は考え得るが、「善良で全能な神」は人間の願望にすぎない。

グノーシス主義とは何か?

グノーシス」は元来ギリシャ語で「知識」あるいは「認識」の意。ただし宗教学、宗教史の用語としては、グノーシスによって救済を得る宗教思想(グノーシス主義)をさす。この場合の「グノーシス」は、人間がその本来的自己を、現実世界においては非本来的なもの(身体、国家、宇宙、とりわけ人間の運命を支配する星辰)によって疎外されているという反宇宙的二元論の立場から、宇宙を超える至高神と人間の本来的自己との本質的同一性の「認識」を救済とみなす宗教思想の意。(荒井献、日本大百科全書

グノーシス主義の中心には、宇宙は神秘的で不可測の存在から多くの媒介を経て流出したものであり、現存の人間の感覚世界はその最後の最も低次の悪しき造物主(デミウルゴス)によって創造されたとする命題がある。(世界大百科事典)

グノーシスが「知識」あるいは「認識」の意味であるというとき、私たちが考えるような、科学的な知識/認識を意味しない。「宇宙を超える至高神」と「人間の本来的自己」が本質的に同一であるという「知識」あるいは「認識」であるらしい。

問答無用の信仰(宗教)には興味が無い。

「精神と物質」、「意識」の問題こそ、解明されるべき問題である。

*1:「価値が支配する!」を意味するギリシャ語に由来する言葉。

*2:訳注:イギリスのヴィクトリア朝時代の詩人ホプキンスが書いた「斑の美」という詩を意識したもの。