浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

生命の分析に対するカンギレムの批判

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(32)

今回は、第4章 機械としての生命 第1節 生命の分析 の続き(p.170~)である。

我々は「あるがままの記述」を理解できない

生命を構成するすべての分子の運動を記述することができれば、それは確かに生命についての可能な限り外在的な意味づけを取り去った記述である。しかし、細胞内の化学反応の経路の全体を示す図面を示されたときに、我々は「複雑すぎて意味が分からない」と思ってしまう。生命についての可能な限りあるがままの記述は、我々に「生命とは何か」という問題に対する答えを与えてくれるものではないのである。

外在的とは、「独自の論理に従っているものに対して、その論理以外の論理によって解釈しようとすること」を指す(p.159)。生命を分子運動で記述すれば、「生命とは何か」という問いに対する答えになるか。化学反応の経路の全体を示せば、「生命とは何か」という問いに対する答えになるか。「生命とは何か」という問いは、外在的な意味づけを求めるものだろう。

複雑な現象に対するシンプルな理解枠組みを創造し、そうした枠組みから見て重要な要素のみを取り上げて現象を再構成することは、科学的な理解における本質的な営みである。物理学者はリンゴの味や収穫時期を気にしないし、生物学者はリンゴの落下運動を無視するのが当然であり、適切である。要するに科学は、実在のすべてをあるがままに捉えるのではなく、ある理論的関心から見て重要な側面のみを捉えるものであって、その意味において現象に対する人為的・恣意的な理解である。

科学とは、複雑な現象(物理的存在も一種の「現象」である)を、特定の視角から切り取って(シンプルな理解枠組みを設定して)、解釈するものだろう。それは「人為的・恣意的な理解」であるとも言える。科学とは、「井蛙、夏虫、曲士*1」の言説である。とはいえ、「すべてをあるがままに捉える」ということが何を意味するのかさえ議論の余地があり、「井蛙、夏虫、曲士」の言説(議論)を反復することしかできないのかもしれない。

 

生命の分析に対するカンギレムの批判

山口は、G.カンギレム(1904-1995)の生命思想を『生命の認識』から引用紹介しているが、わかりにくいので、金森の解説を参照しよう。

カンギレムは、バシュラールの後の世代、つまり1940年代から1960年代にかけて活躍したエピステモロジー(科学認識論)の代表的思想家である。バシュラールがおもに数学、物理学、化学の認識論的考察に焦点を絞ったのに対して、あたかもそれを補完するかのように、カンギレムは、医学、生物学を主要な研究対象にした。

反射概念の形成』…生体のなかに潜む機械的因子の代表的現象であるように思える反射という現象の理解が、まさに身体を機械論的に説明し尽くそうとしていたデカルトの人間論に端を発するのではなく、むしろ医化学や自然哲学に近い立場にいた医師トーマス・ウィリスらによって形づくられていったという歴史的な逆説を跡づけたものである。

正常と病理』…正常と病理との差を、血糖値のような定量的把握によって客観的に把握できるはずだと考える発想を生理学者クロード・ベルナールらの学説を検討しながら最終的には否定するという結論に導く。定量化の総体から正常と病理[病気?]を見極めるという意味での客観的生理学は存在しない。なぜならそこには病理を病理と感じる、生物の側からの質的規範の位相が不可避的に介在しているからだ。この逆説的結論は、フランスの医学哲学に激震を与えた。

カンギレムの仕事はフーコーアルチュセールなど、フランス現代思想を築きあげた多くの英才に深い影響を与えた。(金森修日本大百科全書

身体は機械ではない。また正常と病気を区分する客観的基準は存在しない。

ある人の身体のある部分にXなる物質が(ある量)存在するとき、彼を「病気」と診断するのは、「シンプルな理解枠組み」を前提しての基準に基づくものだろう。(注:無意味と言っているわけではない)

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https://www.sageru.jp/diabetesmellitus/knowledge/criterion.html

 

山口は、次のように述べている。

生物は単なる物理的な対象ではなく、それ自身としての個体性や全体性を持っている。それゆえ、その研究において物理化学的方法を使用することは当然であるものの、生物学的現象を単なる物理化学的現象の総和に還元することはできずその生物自身にとっての意味と一致するような解釈や理論が必要だということである。

生物学的現象を「分子、原子、素粒子」の運動に還元して記述しても、「その生物にとっての意味」が分かるわけではない。「私は、あなたが好きだ」、「<自由>のためには、人を殺しても(戦争も)やむを得ない」というようなことが言えるわけではない。

対象の一部分を操作し[例えば、ある器官の切除]、その結果を観察することでそこに因果関係を見て取る(ないし設定する)ことが実験という営みの本質であるが、どの部分を操作するかということの選定も、どのような結果を観察するかということの選定も、外在的な観察者の視点からなされる。また、原因となる事象と結果となる事象との間のつながりの詳細は、こうした手法によって明らかにはならない。

因果関係分析は、「外在的な観察者」の視点からなされる。原因となる事象と結果となる事象との間のつながりは明らかにはならない。ブラックボックス

ある遺伝子が破壊されたり過剰に発現させられたりすることでその生物は全体的な変容を被り、もはやそこから一形質を取り出して、そうした操作を行われていない個体の一形質と比較することには意味が無いかもしれない、ということになる。

ある遺伝子の破壊/過剰発現/付加は(ある遺伝子の操作は)、その生物に「全体的な変容」を及ぼす。その時、その遺伝子の操作と変容の一部分との因果関係を主張することはできるのか。

重要な機能を担っているはずの遺伝子を破壊しても個体に目立った異変が見られないことがままある。これは一つの遺伝子が欠損しても、残った遺伝子群が補い合って、その遺伝子があったときとは別のシステムを作って何とかやりくりしているということではないかと思われる。だとすると、異変が観察された場合でも、それは破壊された遺伝子の機能に単純に対応するのではなく、その遺伝子があったときとは別のシステムの作動を観察しているということになる。

「遺伝子破壊」と「観察された異変/観察されなかった異変」とは単純に対応しない。別のシステムの作動を考慮しなければならない。このような話を聞くと、生物の科学は、因果関係を証明できないのではないかという気になる。

カンギレムの問題意識は、私の問題意識と大きく重なるものであり、自分自身生物であるところの人間が、他の生物という、それぞれの主体性・主観性を持っているような特異な対象を外在的な視点から理解しようとすることを巡る問題点を突くものである。…カンギレムは、生物を「一つの全体として生きていることによってのみ、一つの生体であるような存在」ということで、「生」と「全体性」とを重ね合わせているようである。

ある生物個体は、分子、原子、素粒子の集合体(全体)である。一つの集合体(一つの全体)として生きている。

ある生物個体は、集合して「社会」を構成する。「社会」の構成員として活動する。つまり全体として(社会の一員として)生きている。

生物個体は、環境(自然環境や他の生物の存在する世界)の中で生きている、そのような環境との相互作用なしには生存できない。一つの全体として生きている。

しかし、常識的に考えると、生物にはそれぞれ主観があって独自の生を営んでいるということと、有機体は諸部分が相互に絡まりあった不可分の統一体であるということとは別のことだと思われる。例えば、ある動物個体が何を考えてある種の餌を選択したかということと、その個体の内分泌系がお互いに制御しあいながら作動していることとは、明らかに全く別のことではないか。

「明らかに別のこと」であるかどうかは分からない。「意識」(主観、思考)の問題は難問である。

他者の主観を客観的に認識することは、哲学史上悪名高い「独我論」の問題に落ち込んでしまいかねない難問であるが、分割不可能な統一体として生物を認識するという点については、諸部分間の関係を全体的に、システム的に捉えることで可能であるように思える。そのように生命を全体的・システム的に捉えることで、生命について、科学的でありながら外在的な読み込みを排した理解を達成することができるだろうか?

独我論」についてはいずれとりあげよう。

次節は、「生命の機械論モデル」である。