浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

正義論におけるエゴイズムの位置

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(18)

今回は、第2章 エゴイズム  第3節 正義とエゴイズム 2 エゴイズムの問題 の続き (3)正義論におけるエゴイズムの位置(p.59~)である。

エゴイズムの哲学が批判しているのは、個々の正義観が提示する個々の正義原則ではなく、すべての正義観が前提している正義の理念である。その抽象性・形式性の故に一見「空虚な公式」と思われる正義の理念が、既に一つのコミットメントを内蔵していること、基準を補充される以前に正義の概念自体が、既に一定の規範内容を有していることが、正義理念の分析によって示された。

以前に読み書きしたことをすぐに忘れてしまうので思い出そう。

正義の理念とは、「等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱わるべし」という命題で表される。その抽象性・形式性とは、この命題が「何が等しく何が不等なのかについて何も述べていない」ということである。それ故、「空虚な公式」に見える。*1

正義の理念が、既に一定のコミットメントを内蔵している(=一定の規範内容を有している)というが、どこでそのような分析がされていたのだったか?

このコミットメントとは、「自己性」を差別的行動のための理由とすることの禁止、即ち固有の意味でのエゴイズムの排除である。エゴイズムの哲学は、正義概念のこの「規範内容」ないし「コミットメント」を「種」および「類」のエゴイズムとみなし、それが人を血なまぐさい闘争と偽善に導くこと、および個人の思想・感性のあらゆる固有観念からの全面的な開放による真の「個の自由』の実現をそれが阻害することを指摘する。

このパラグラフについては、第3節 正義とエゴイズム 2 エゴイズムの問題  (2)「種」と「類」のエゴイズム を読み返そう。*2

私はそこで次の図(正義を主張する者の立場の図示)を描いて理解した。

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正義は、本質的に重要とされる何らかの特徴によって定義された集合と、その補集合との差別的取扱いを是認し、かつ要求する。正義のこの態度は、彼ら[エゴイズムの哲学の提唱者]にとって、その「本質的」な特徴の実体化たる「種」ないし「類」のエゴイズムを代弁するものに他ならない。

私は、そこで「本質的に重要な何らかの特徴」(正義)として、「人間、白人、日本国民、ワクチン接種者、私」をあげてみた。即ち、「人間と人間でないものを区分して(差別して)取扱って良い」、「白色人種と有色人種を区分して(差別して)取扱って良い」、「日本国民と外国人を区分して(差別して)取扱って良い」、「ワクチン接種者とワクチン接種していない者を区分して(差別して)取扱って良い」、これと同型なものとして「私と他者を区分して(差別して)取扱って良い」という論理である。

ロシアのウクライナ侵攻に関連して、「自由」のために戦う者(=正義)をあげることもできよう。即ち、「自由のために戦う者(=正義)と独裁者/全体主義共産主義のために戦う者(=正義ではない)を区分して(差別して)取扱って良い」という論理である。

正義の理念(等しきものは等しく、不等なるものは不等に扱わるべし)が、このような論理構造を持っているとすれば、何かが「おかしい」と思わないだろうか。

確かに、この批判は根源的(ラディカル)である。それはあらゆる正義観の共通の前提に関わるものである以上、およそ正義について規範的理論の構成を試みるすべての者はそれに応えなければならない。しかし、かかる批判は正義理念の機能的特性に向けられたものである。

井上は、正義理念の機能的特性に対する批判のみならず、より一層根本的な「正義理念の根拠に向けられた」批判があるという。

正義理念に対する哲学的に一層根本的な挑戦は正義理念の根拠に向けられた次の問いに表現されている。即ち、

自己の個体的同一性を差別的行動の「理由」とすることを禁止する権利が、果たして正義にはあるのか?

なぜこの禁止に抵触してはいけないのか?

なぜ利己的たると利他的たるとを問わず、端的にエゴイストであることを正義は許さないのか?

井上はこの問いにどのように答えようとしているのか。

正義論の根本問題は「なぜエゴイストであってはいけないのか?(Why not be ego-ists ?)」である。

何故なら、エゴイズムが支持可能であるならば、各人は自己と他者を属性の等・不等を問わず個体的同一性における相違のみを根拠として、差別的に取扱うことが許される以上、「何が等しく、何が不等に扱わるべきか」という正義論の主題が無意味になるからである。

この問いの立て方に関して、井上はアナキズム無政府主義)を引き合いに出している。

政治哲学あるいは国家論の根本問題は、「なぜ無政府状態ではいけないのか?(Why not have anarchy ?)」(R.ノージック)である。何故なら、アナキズムがもし支持可能であるならば、「国家はいかにあるべきか」という政治哲学の主題全体が無意味になるからである。

しかし、人々の「アナキズム」に対する態度と「エゴイズム」に対する態度は異なる。

アナキストたちは人間の善性への信頼と強い倫理意識の故に、暴力装置としての国家の「不道徳性」を非難し、その廃絶を主張する。そのため彼らの思想の「非現実性」を批判するものでさえ、彼らの理想主義的態度に一応の敬意を表し、若干の人は彼らの思想が真剣な批判的吟味に値するものであることをも承認する

アナキズムは興味深いテーマなのでいずれとりあげたい。

しかし、エゴイズムに対しては、

多くの人々が相互の道徳観の相違にも拘らず一致して彼らに「不道徳」の烙印かまたは「無道徳」の極印を押し、彼らの思想が規範倫理学論議において取り上げて論じるに値することさえ否認するのである。

私も多くの人々と同様に、エゴイズムなどまともに議論するに値しないと思っていたのだが、井上はそうではないと言う。これは話を聞いてみなければならない。

井上は、エゴイズムに対する人々のこのような態度の背景をなす要因を2つあげている。

①エゴイズムの哲学を説くものの一般的なスタイルがシニカル[冷笑的]であり、コンヴェンショナル[慣習的]な社会倫理に対する軽蔑を虚無主義的言辞で彩るために、狂信と偽善とに対する激しい憎悪「個の自由」の熱烈な希求など、彼らの「秘められた」倫理的態度にあまり関心が向けられていないという事実。

エゴイズムの論理的構造に対する人びとの無理解。

哲学的には、第2の要因の方が重要であるという。

道徳的価値を持つことが一般に承認されている極限的利他主義(正のエゴイズム)が、利己主義等の負のエゴイズムとともに、行為者の自己性ないし個体的同一性を差別的行為の「理由」として承認するというエゴイズムの核心を共有していることを、多くの人が理解していないのである。

エゴイズムの論理的構造が、正のエゴイズムも負のエゴイズムも同一であるというのである。

人はエゴイストであることによって、当然に利己主義者になるわけではない。エゴイズム自体は利己主義にも利他主義にもコミットしない。それは道徳的に「正」でも「負」でもない。利己的に振る舞うか利他的に振る舞うかは、個々のエゴイストの選択の問題である。同一のエゴイストがときに利己主義者として、ときに極限的利他主義者として振る舞うことも可能である。 

井上は、エゴイスト=利己主義者と定義していない。エゴイストとは、「個体的同一性」を「異なる取扱い」の根拠とする者である。「素晴らしい能力を持ったものは称賛に値する」とか、「極悪非道の輩は厳罰に処すべきである」とか、「わが子のためには、私は犠牲になっても良い」とかいうのは、「個体的同一性」を根拠に「異なる取扱い」を要求しているのではないか。

エゴイストは、まさにエゴイストであるが故に、正義以下に振る舞うこともできれば、正義以上に振る舞うこともできる。厳格な「正義の徒」は、まさにエゴイストでないが故に、正義以下には振る舞い得ないが、同時に、正義以上の道徳的価値を実現する可能性をも失うのである。負のエゴイストが「不道徳」であるとしても、それは彼がエゴイストだからではなく、むしろ全面的なエゴイストではないから、即ち、エゴイズムの全可能性のうち、利己性の可能性しか実現していないからである。

負のエゴイスト(=いわゆる「利己主義者」)が不道徳であるとしても、それは彼がエゴイスト(=個体的同一性を根拠とする者)だからではない、エゴイズムのうち「利己性」のみを実現しているからである、というのである。

井上の言う「正義の徒」は「エゴイスト」(=個体的同一性を根拠とする者)ではない。だから、「正義以上の道徳的価値を実現する可能性」を持たない。極限的利他主義ではない。

エゴイズムに帰された「不道徳性」に加えて、正義理念の定式を空虚公式とする見方も、正義論の根本問題としてのエゴイズムの問題の意義を見落とさせるのに一役買っている。この見方からすれば、エゴイズムも正義定式に対する極端ではあるが一つの可能な解釈、従って、一つの正義観であるということになり、エゴイズムがすべての正義観の共通の前提たる正義理念自体を否定していることが見落とされてしまうからである。

「正義理念の定式を空虚公式とする見方も、正義論の根本問題としてのエゴイズムの問題の意義を見落とさせるのに一役買っている」とはどういう意味だろうか。正義理念の定式とは、「等しきは等しく、不等なるは不等に」という定式であるが、「等・不等の基準」を示していないから「空虚公式」であるといわれる。「等・不等の基準」が「個体的同一性」(エゴイズム)だとすると、空虚は埋められるが、それは一つの正義観である。それは他の「等・不等の基準」に基づく正義観を認めないことになる。つまり、「等しきは等しく、不等なるは不等に」という(空虚な)公式(正義の理念)を否定することになる。…という意味だろうか。

結局、エゴイズムに対する皮相的理解と正義概念そのものの「規範内容」への無理解とが、多くの人々に正義論におけるエゴイズムの問題の位置を見失わせた要因であるが、この二つの要因は表裏一体の関係にある。エゴイズムと正義とは、「実践的推論において個体的同一性はいかなる位置を占めるか」という根本問題を巡る二つの正反対の立場である。エゴイズムは個体的相違が道徳的にレレヴァントな[relevant、適切な、妥当な]理由となり得ることを主張する個体主義の立場に立ち、正義はこれを否定する普遍主義の立場に立つ。

なるほど、エゴイズムー個体主義正義―普遍主義という立場の違いとして理解するとわかりやすい。

従って、一方の理解を深めれば必然的に他方の理解も深められるし、逆に一方の核心が理解されなければ、他方の核心も理解されえない。正義概念の分析は同時にエゴイズムの分析である。正義概念に内在する普遍主義的要請が明るみに出されたとき、同時にエゴイズムの個体主義としての「本質」も顕わになる。そして、この時初めて、エゴイズムの問題が相対主義ニヒリズムの問題がそうであるのとは違った意味において、正義論の根本問題であること、それが規範倫理学一般ではなく、特に正義論の存在理由に関わる問題であること、エゴイズムが倫理外在的に正義を批判しているのではなく、むしろ、我々の道徳的世界が正義の視野を超えた地平を持つことを主張していることが理解されるのである。

個体主義(個別)と普遍主義(普遍)と言い換えれば、普遍を理解するには個別を理解しなければならないし、個別を理解するには普遍を理解しなければならないということになる。

最後の一文、「我々の道徳的世界が正義の視野を超えた地平を持つ」ということは、敷衍されなければならないだろう。