浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

生命の機械論モデル

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(33)

今回は、第4章 機械としての生命 第2節 生命の機械論モデル である。

現代の生命科学は全て、デカルトに由来する機械論哲学を前提として構築されている。…カンギレムは、『生命の認識』所収の論文「機械と有機体」において、…我々が有機体(生物)と機械とを同一視する理由を論じたうえで、機械論的な生物理解の背後にある構造を明らかにし、更にそこから人間という生命のあり方にまで考察を進めている。

山口は本節において、カンギレムの論点のうち、「有機体を機械と同一視することの意味」、「メカニズムと合目的性の関係」の議論を追うことで、現在に至る生命理解の基本的枠組みである機械論がどこまで有効かという問題について考えていく、としている。

問題は、なぜ我々は生物やその諸器官を見たときに、それを機械と同一視してしまうのかという点である。「有機体を機械と同一視することの意味」は一体何か。カンギレムが言うには、「我々は、ある異様なメカニズムを前にして、問題になっているのがまさに一つのメカニズム、すなわち諸作用の必然的な連続的系列であるということを検証するために、いかなる効果がそれから期待されるのか、すなわち目指されている目的はどのようなものなのかを、知ろうと努めざるを得ない。我々が装置の形態と構造とに従ってその用途が何であるかを判定することができるのは、その機械あるいは類似した機械類の用途を既に識っている場合だけである」。

カンギレムのこの説明はちょっと分かりにくいが、山口の次の説明(要約)は分かりやすい。

要するに、我々は、単なる物質的な因果関係の系列(「異様なメカニズム」)を、機械と類比させることではじめて、ある目的のために構成されたひとまとまりのシステムをなす全体(「一つのメカニズム」)として理解することができるということである。

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https://amami-time.com/cat_nature/4334/

 

「単なる」物質的な因果関係の系列を「異様な」メカニズムとし、「ある目的のために」構成されたひとまとまりのシステムをなす全体を「一つの」メカニズムと称している。面白い表現だ。

通常、「機械論」とは、世界の諸現象を必然的な因果関係によって説明する説であり、「目的論」と対立するものであると考えられている。実際、デカルトの理論は、太陽系の起源、惑星と彗星の運動から人間の身体の仕組みに至る、この宇宙におけるおよそすべての現象を、運動法則と、それに従って運動する微粒子によって説明しようとするものであり、仮想敵としてアリストテレスの目的論的な世界理解があることは明らかである。こうしたことから、デカルトの思想は物理学への還元主義であるというというような解釈が広く信じられている。ところが、こうした「常識」に抗して(あるいはデカルト自身の意図にさえ反して)、カンギレムは、生物に対する機械論的説明が目的論を排除するのは見せかけに過ぎず、実は目的論を前提としていると主張する。

カンギレムは、なぜこのように主張するのか。

なぜなら、たとえ機械の働きが純然たる因果性の諸関連によって説明されるとしても、機械の製作は合目的性なしでも人間なしでも理解されないからである。機械は、生産すべき結果として獲得すべき何らかの目的を目指して、人間によって人間のために作られるのである」。

単純明快な説明である、単純すぎて、何か拍子抜けするような…。

山口は述べている。

機械論哲学は、宇宙の諸現象を物質的な因果関係によってのみ説明すると言いながら、生物を含むこの宇宙の全体を「神が製作した機械」であると理解することで、目的論的な理解をこっそり持ち込むものである。

天体の形成などについてのデカルトの「機械論的説明」は、確かに目的論を排除して単なる因果系列によってなされている。神は単に物質と自然法則を想像しただけで、後は法則に従って運動する物質がいわば自己組織的に天体を形成していくのである、しかし、「機械論的説明」を生物の身体構造に当てはめたところでデカルトは、胃は消化のための器官であり、心臓は血液循環のための器官であるなど、身体諸器官には「目的」があることを自明の前提であるかのように語りだす。

「胃は消化のための器官である」、「心臓は血液循環のための器官である」というのは、「胃」や「心臓」を物質的な因果関係によって(分子や原子に還元して)説明するものではなく、「消化」や「血液循環」という「目的」が入り込んだ目的論的説明である。

要するに、「機械」という概念は「(一般に言われる意味での)機械論」と「目的論」の両方にまたがる二義的なものであり、機械論哲学は、全ての自然現象を物理学的な力や法則で説明するという思想であると同時に、自然現象を機械との類比で理解するという思想でもあるのだ。

機械という概念が二義的なものであるということは覚えておきたい。

機械が作動するのは、ただただ部品の間の因果関係に基づいてである。…部品の運動は、物理学的な力や法則のみによって説明できる。しかし他方、機械はそもそもある目的のもとに製作されたものであり、機械が作動するのは何らかの目的を実現するためである。そして、機械を「理解する」とは、それを構成する個々の部品の運動を記述することではなく、その運動の最終的な目的を理解することに他ならない。第2章での表現を繰り返すなら、生物を機械に類比することは、実は隠れた擬人主義なのだ。

客観的な説明であるように見えても、擬人主義が隠れていないか要注意である。

もちろん、現代生物学における生物の「機械論的説明」では神は既に追放されてしまっている。神の役割を引き継いで生物の合目的性を保証しているのは進化論である。そして進化論は、生物を、遺伝子という我々自身ではないものの増殖を目的とする機械だとみなす思想でもあったデカルトの機械論においても生物の合目的性は、神というその生物自身にとって外在的なものによって与えられる。進化論は、合目的性についての外在的な視点からの説明であるという点でも、神による説明を引き継ぎものであるといってよいかもしれない

私が進化論に違和感を覚えるのは、まさにこの点(「生物は、自己増殖を目的とする機械である」)である。それは、人間中心の根拠なき信仰であるように思える。*1

いずれにせよ、現在に至るまで生物についての機械論的説明は、ますます強固なものとなっている。そして、外在的な視点からの説明や理解にまつわる問題についてはさておいたとしても、カンギレムが言うには、この機械論モデルには限界がある。「生物を自動的な機械に比較すればするほど、その機能はますますよく理解されるように思われるが、その発生はますます理解されなくなる」。この点において生物は機械に還元されることが不可能だと、カンギレムは主張するのである。

「機能」の理解と「発生」の理解。…機械論モデルは「発生」を問わない。現存していることを既定の事実として「機能」のみを問う。「機能」の説明に「目的」を忍び込ませれば、それは科学ではなく宗教となる。

彼がカントの『判断力批判』の議論を参照しつつ述べることには、「機械ではそれぞれの部分は他の部分のために存在しているが、他の部分によってではない。いかなる部品も他の部品によって産出されず、いかなる部品も全体によって産出されないし、いかなる全体も同種の他の全体によって産出されない。時計を作る時計は無い。……それ故、機械は動かす力を所有しているが、外部の物質に自らを伝えて増殖することのできる形成的エネルギーを所有していない」。

しかし、カンギレムがこの論文を書いた1946,47頃は、未だ分子生物学の草創期であり、生物を「情報機械」とみなす生命観は形成途上であった。彼の議論は概ねもっともらしいが、「形成的エネルギー」という生気論を思わせる言葉も用いられている。

カンギレムのこの議論は確かに古臭い感じはする

その時代から半世紀を経て、現代の生物学は、発生や増殖についても分子の運動に基づく機械論モデルで理解しようとしている。生物をその様な「自己増殖する機械」として理解することで、カンギレムの言う機械論的理解の限界を乗り越えることができるだろうか。そして、生物をまさしくそれ自身に即して理解することができるだろうか。

現代の生物学は、生物を「自己増殖する機械」とみなしているらしい。それはどういう意味なのか、次節で説明があるようだ。

*1:私は進化論をまともに勉強していないので、これは誤解かもしれないのだが…。