浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

ディケーの弁明

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(19)

今回は、第2章 エゴイズム  第4節 ディケーの弁明 1「正義は最善の政策」か(p.63~)である。

ディケーとは、ギリシア神話の正義の女神である。ここでは「正義論者」の意味である。本節は「ディケーの弁明」とあるが、「正義論者とエゴイストの対話」と言ってよいだろう。まさに「対話形式」で書かれていて、なかなか面白いのだが、面白さを伝えようとすると全文引用になってしまうし、要約しようとすると面白さがなくなる。しかしま、あまり気にせず従来スタイルで引用、コメントしていくことにしよう。(D:正義論者、E:エゴイスト。緑字は傍点の代わり。ですます調は、である調に変換)。的外れなコメントであれば、後で訂正する。

 

D:正義の理念は人間が相互に全く干渉せずに生きてゆける世界でなら、無用の長物である。しかし、残念ながら現実の人間世界はそんな風にはできていない。そこでは利害の衝突という不可避の問題がある。この問題を抱えた諸個人は、好むと好まざるとに関わらず相互に干渉せざるを得ない。今、この世界で…誰もがエゴイストであるとしよう。このとき利害衝突の調整の基準たるいかなる正義原則も存在できない。従って、利害衝突の当事者は各々利己的に振る舞うか、利他的に振る舞うかのどちらかである。つまり、自分の要求を何が何でも押し通すか、自分の要求を棄てて相手の要求を呑むかのどちらかである。利己的にも利他的にも振る舞わず、非個人的なルールに訴えて双方の要求を調整するということ(これが正義の要請である)は、エゴイストたちには不可能なのだ。

個人レベルではエゴイストのみの世界は考えにくいかもしれないが、集団レベルでは、とりわけ国家レベルではエゴイストのみの世界は現実的(国益第一)であるので、この想定はおかしくはない。

「利害衝突の当事者は各々利己的に振る舞うか、利他的に振る舞うかのどちらかである」とすれば、私(自国)と相手(敵対国)がどのような態度をとるかによって、4つの帰結が予想される、とディケー(正義論者)は主張する。(井上はこの4つの帰結をもう少し詳しく説明しているが、ここでは簡略化し、かつ「利得」を数字で表現してみた)。

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D:どちらの当事者も、利己的態度をとった方が利他的態度をとった場合よりも、相手がどちらの態度を取るかに関わりなく、常により良いあるいはよりましな結果が得られる。従って、合理的な人間なら当然利己的態度を選ぶだろう。…両当事者がともにこの「合理的」な選択をした結果はどうか。それは泥沼の対立である。むしろ両者がともに「合理的でない」選択をした方が、つまり利他的態度をとったほうが、結果はましである。

2×2の単純化した状況理解では、このように言えるだろう。

D:[であれば]果たしてこの選択は本当に「合理的」なのかという疑問が当然湧いてくる。しかし、利害衝突を調整するための共有された基準が何もないという状況のもとでは、やはりこれが合理的なのである。…従って、両当事者とも、それが全体として見たとき、双方にとって最適の結果をもたらすものではないことを知りつつも、しかも、双方とも協力を望みながらも、なお「合理的」な利己的態度をとらざるを得ないのである。

「従って」の前に、もう少し詳しい説明があるのだが省略した。

D:以上の話によって、私は「エゴイストよ、利他的たれ!」などと叫んでいるのだろうか。いいえ。…私が言いたいのは、エゴイストは正義の理念を排除することにより、エゴイスト自身の望み・期待に反する二つの帰結を受忍しなければならないということである。

ここで正義の理念とは、「非個人的なルール」であり、「利害衝突を調整するための共有された基準」である。

「エゴイスト自身の望み・期待に反する二つの帰結」は、以下の通りである。

D:第一の帰結…エゴイストは、各人が自己の欲求を正義の名において正当化したりせずに、端的にその実現のための適切な手段を理性的に追求すれば、結果として社会はかえってうまくいくと想定しているが、事態は逆である。先の話が示しているように、全員が自己の欲求を追求するうえで「合理的」な選択を行ったとしても、その結果は全員にとって最適なものではない。それどころか、この結果は対立の泥沼化という非常に忌まわしいものである。これはやがて悲惨な闘争にも導くだろう。こういう状況ではエゴイストが獲得した「個の自由」なるものも、惨めな獣的生活以上のものをもたらしはしないだろう。

エゴイストたちの「合理的」な選択が、対立の泥沼化、悲惨な闘争を招く。「相手」の非のみを言い立て、軍事技術的に勝つことを主張する。「対話」なき「対立」。力を背景にした「対話」。

D:第二の帰結道徳的価値を持つような利他主義的行為が不可能になる。エゴイストは合理的である限り、端的なエゴイストであるにとどまらず利己主義者たらざるを得ない。あなたは、エゴイズム自体は利己主義にも利他主義にもコミットしていないと言われた。また、エゴイストはまさにエゴイストであるが故に、正義以上の道徳的価値を実現できると主張された。そして、正義以下に振る舞うことを許さないだけでなく、そのような正義以上の行為をも禁じる正義の態度を嘲笑された。

「エゴイズム自体は利己主義にも利他主義にもコミットしていない」とか「エゴイストはまさにエゴイストであるが故に、正義以上の道徳的価値を実現できる」というのがどういう意味であるかは、前回の「正義論におけるエゴイズムの位置」を参照。

私自身もう一度読み返してみて、確かに分かりにくい。それは「エゴイズム」という言葉の用法にあるようだ。「エゴイズム」とその類語の意味は、デジタル大辞泉によれば次の通りである。

エゴイズム…自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式。利己主義。

利己主義…社会や他人のことを考えず、自分の利益や快楽だけを追求する考え方。また、他人の迷惑を考えずわがまま勝手に振る舞うやり方。エゴイズム。

個人主義(individualism)…1.国家・社会の権威に対して個人の意義と価値を重視し、その権利と自由を尊重することを主張する立場や理論。2.「利己主義」に同じ。(デジタル大辞泉

おそらく大部分の人は、エゴイズムを「個人主義」の意味では使ってはいないだろう。ところが本書のエゴイスト(「正義」の批判者)は、上記「個人主義」1.の意味で使っているようだ。そうであれば、その主張は理解できる。

D:確かに、エゴイズムは論理的には利己主義にも利他主義にもコミットしていない。しかしそれは、流行の言葉を使わせていただければ、「ゲーム理論的」には利己主義にコミットしているのである。

エゴイズムが「個人主義」だとすれば、利己主義や利他主義とは異なった概念だろう(ただし、一部「利己主義」と重なる部分があるから、話が混乱する)。「ゲーム理論的」には利己主義にコミットしているというのも、この混同があるようだ。個人主義者に言わせれば、利己主義にコミットしていないと言うだろう。

D:誰もがエゴイストである社会では、利他的に振る舞う用意が各人にあるにしても、各人は他人に「操られ]たり「食い物にされる」ことにより合理的主体としての尊厳を失わないためには、断固として利己的態度を貫徹しなければならない。

先の「ゲーム理論的」状況を仮定すれば、そう言える。続いて、「何かを譲るという行為は、それを奪おうとしている者に対してなされた場合は道徳的には愚劣である」とか「狼に食べられるためにわざわざ森へ行く羊は利他主義者でもなんでもなく、端的に愚かなのである」と述べているが、結局次のことを言いたいのだろう。

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https://variety.com/2022/film/global/filmax-maria-ripoll-malaga-1235207940/

 

D:利害衝突が不可避なこの世界においてエゴイストは、合理的主体である限り、利己主義者にならざるを得ない。この時、狂信的・倒錯的行為としてではなく、倫理的に称賛さるべき行為としての純粋に利他的な行為の成立条件は、滅却されてしまう。

利害衝突が不可避なこの世界においては、合理的主体である限り、利己主義者にならざるを得ない。国家間の競争が不可避なこの世界においては、合理的主体である限り、利己主義者にならざるを得ない、ということか。

D:これに対して、正義は、利己的態度しか「合理的」選択であり得ないような状況をそうでないものに変え、倫理的価値を持つ利他的行為の成立条件を生み出す。逆説的に言えば、正義はエゴイズム一般を禁止することにより、その一形態である正のエゴイズムを可能にするのである。

利己的態度しか「合理的」選択であり得ないような状況とは、「利害衝突が不可避なこの世界の状況」のことだろうか。正義はこの世界の状況を変えるというが、いかにして?

正義は「エゴイズム一般」を禁止すると言うときの「エゴイズム」とは、「利己主義」のことか「個人主義」のことか?

正義は、「倫理的価値を持つ利他的行為」を称揚するのか? 利己的行為とか利他的行為とは異なる概念ではないのか?

D:以上二つの帰結はいずれもエゴイストの基本前提に反するものだろう。しかし、これは正義の禁止が無視された場合の帰結である。従って、エゴイストはその前提に忠実であろうとするならば、正義の理念が含意する禁止の正当性を承認しなければならない

「正義の理念が含意する禁止」とは、何であったか。

個体的同一性における相違を理由にした差別一般。(P.53)

自己性を差別的行動のための理由とすることの禁止、即ち固有の意味でのエゴイズムの排除。(P.59)

自己の個体的同一性を差別的行動の理由とすること。(P.60)

エゴイストは、このような「正義の理念が含意する禁止」を承認しなければならない、と言う。ここでのエゴイストとは、「個体主義者」(個人主義者)のことか。

 

さてエゴイストは、何と応答するか。

E:いや見事な議論だった。思わず聞き惚れてしまって、自分が批判されていることさえ忘れるところだったよ。ところで、細かいことだけど、一つだけ聞いていいかい。

D:どうぞ。

E:あんたの話に出てくるエゴイストたちには目と耳と口がちゃんとついているんだろうか。