アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(28)
今回は、第5章 競争が人格をかたちづくるのだろうかー心理学的な考察 第1節 なぜ競争するのか の続き(P.168~)である。
コーンは、「競争を行うのは自分の能力に対して抱いている根本的な疑いに打ち勝とうとするためであり、そして、最終的には、自尊心の欠如を埋め合わせするためであるという命題を提起しておきたい」と述べていた。(p.165-166)。この点について、さらに次のようなことが述べられている。
- 競争を好む人が競争する機会を奪われるのは、空腹の人が夕食をとりあげられてしまった場面に似ている。不安やパニックや怒りの反応が生じる。それは、自尊心が欠けているからである。
- (競争に負ければ)自分の力量不足をさらけ出すことになる。勝利を得ようとして、他の誰よりも優れていたいと悪戦苦闘するわけだが、それは自分の価値を納得するための捨て鉢で、空しい努力なのである。
- 人々は注目され、報酬を受け、認められることを無限に追い求めていく。それは、底に穴が開いている器に水を注ぐようなものだ。
- 一定の能力を認められても、人格全体に関する価値までは問題にならない。従って、どんなに有能な人々でも、自分が他人よりどれ位優れているのかを確証する必要を感じている。
競争と健全性
競争が本質的に代償充足的なものであり、自分を確認し、価値が無いのではないかという不安を免れるために行う努力なのだとすれば、その結果、個人が(より確固とした、無条件の自尊心を備えているという意味では)健全であればあるほど、競争をする必要などなくなるのである。ここでは、ナンバー・ワンになる代わりになるのはナンバー・ツーにならないことなのではなく、全く序列付けをしないで済ますことができるほど心理的に自由であることなのだということが示唆されていると言えるだろう。
この文章はよく心にとどめておきたい。健全な人は、競争をする必要はない。
二人のスポーツ心理学者が、「スポーツで成績を上げるという点では成功していないけれども、人格的には大変素晴らしい」優秀なスポーツ選手がたくさんいると言っているのは、興味深い。「彼らは精神的にとても安定しているので、ノイローゼになるほどスポーツにのめり込むことは無いように思われる」。アメリカの文化においては、ほとんどのレクリエーションが競争を含んでいるので、競争する必要などない位に健全な人々は、こういった活動をきっぱりと拒否するだろう。
精神的に安定している人は、スポーツに限らず、何ごとに対してものめり込むことはない。のめり込むとは、狂気の世界に足を踏み入れることである。(武器を持って殺しあうのはまさに狂気の世界である。競争と戦争は、地続きである)。
競争と環境
これまで述べてきたことに対して、自尊心の欠如そのものが、競争の原因になると反論する人もいるかもしれない。この反論は全く正しい。不利と自身も含めて、多くの精神分析学者が、個人を環境から切り離して考えてしまいがちなのに対して、ネオ・フロイト派の人々は、人間の発達、精神の内面的な葛藤、そのほかのすべてがある一定の環境の中で生じるのだと強調している。心理学者が与えられた課題を十分に遂行するためには、個人や家族の研究を行うだけではなく、文化全体の研究もおこなわなければならない*1。
ネオ・フロイト派ならずとも、誰もが「個人と環境は切り離せない」ことくらいは知っていよう。環境要因を無視してはならないことは当然である。
それぞれの文化は、自らが抱える問題に対処すためのメカニズムを備えている。アメリカの文化においては、人生がゼロサムゲームであるという前提と強く結びついているため、競争がその主要なメカニズムの一つとされているのである。競争は、アメリカが選んだ代償充足のメカニズムなのである。即ち、自尊心が欠けているのは、競争を行うための必要条件ではあるが十分条件ではないのである。
アメリカ文化においては「人生がゼロサムゲームであるという前提」と強く結びついているかどうか知らない。しかし、どのような文化であろうと、「人生はゼロサムゲームである」という信念を抱いている人が一定程度はいると思われる。「人生はゼロサムゲームである」とは、世の中には「勝ち組」と「負け組」がいるということの言い換えである。もっとはっきり言えば「金持ち」と「貧乏人」がいるということの言い換えである。
なお、必要条件、十分条件という言葉に頭を悩ます必要はない。(冒頭にあげた)「競争を行うのは、自尊心の欠如を埋め合わせするためである」ということの言い換えである。
UnsplashのPriscillaDuPreezによる写真(https://medium.com/change-your-mind/life-is-not-a-zero-sum-game-stop-falling-for-it-cb65f1c4f856)
競争を構成する要素
競争を構成する要素には、自分を確証したいという疼くような欲求と、他人を犠牲にしてもそうすることを是認するメカニズムとが含まれている。その二つがそろった時、隣の人に気分の悪い思いをさせることによって、自分が良い気分になろうとする何百万の人々が出現することになる。
自分を確証したいという疼くような欲求…この表現は面白いが、私には理解し難い。
隣の人に気分の悪い思いをさせることによって、自分が良い気分になろうとする何百万の人々が出現する…というのも私には理解しがたい。アメリカ社会にはこういう人が何百万もいる?…確かにそのような気がする。
*1:文化的な規範が、構造的な競争として固定化されてしまい、きわめて硬直したものになってしまうために、競争を伴わない選択の機会が、職場や教室や遊び場から事実上消えてしまうこともある。こうした構造化された競争もまた、態度や信念を形作り、意図的な競争を助長していくことになる。(p.162)