浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

45歳「年の差婚」とベムの「自己知覚理論」

山岸俊男監修『社会心理学』(20)

今回は、第3章 社会の中の個人 のうち、自己知覚理論 である。

山岸は、自己知覚理論とは「人は、自分の行動とその行動が起こった状況などを観察することで、自分の態度や内的状態を推論するとする理論」である、また「人は自分の行動を観察することで自分自身の感情や態度を推論する、というのがベムによる自己知覚理論である」と説明している。

これだけでは、これ以上この理論を知りたいという気になれない(※)ので、これは省略して次に進もうと思ったのだが、欄外(豆知識)に「自己知覚理論は、不協和を低減させるために自分の行動を変化させるとしたフェスティンガーの認知的不協和理論への批判から始まったもので、その論争は活発なものになった」とあったので、少し調べてみることにした。

(※)自分自身の感情や態度を「推論」することはまずない。仮にあったとしても、「行動のみ」を観察して推論することなどありえない。

 

以下は、べムの自己知覚理論と認知的不協和理論(esdiscovery.jpの心理学事典)による。

私たちは自分の心理状態(感情・態度・判断)を、自分自身の直接的な体験として即座に理解できると考えているのが普通である。『自分の気持ちは、自分が誰よりも良く分かっている』という常識的な自己理解の認識は、自分の内部で発生する感情は自分で観察したり確認する必要なく直接的な経験として与えられているという確信に基づいている。

感情、態度、判断を一括りに「心理状態」と呼んでいいのか疑問である。「感情」はともかく、「態度」や「判断」を「直接的な体験として即座に理解できる」とは考えられない。

「自分の気持ちは、自分が誰よりも良く分かっている」というのは、「自分の感情は、自分で観察したり確認したりする必要はなく、直接的な経験として与えられている」という意味では、その通りだと思う。

他者から「態度」を批判(非難)されたとき、「自分の態度/感情」を反省/理解しようとするかもしれない。しかしそれは「他者の態度」を理解しようとすることとは明らかに異なる。

心理学者のべム(D.J.Bem、1938-)は、自己の心理状態[感情・態度・判断]を知る時に、「内的な手がかり」(内観的に自分の内面を感じ取ること)から直接的に感情を経験するよりも、「外的な手がかり」(自分の行動や周囲の状況、他人の反応のこと)から客観的な観察を通して知覚する場合が多いという事を指摘した。このように『自己の内的心理』を、自己の行動や周囲の反応といった「外的な手がかり」から推測して知るという考え方を、べムの自己知覚理論という。

他者から「態度」を批判(非難)されたとき、自己の感情態度を理解/分析対象とすることはあるかもしれない。その場合に、「自己の行動や周囲の反応といった外的な手がかり」から推測することはあるかもしれないが、それは一部であるにすぎない。感情や態度は、単なる「行動や周囲の反応」で形成されるものではなく、自身の全歴史(「他者」を含めた環境とのコミュニケーションを含めた全歴史)の帰結であると考えられるので、それは一つの「解釈」であるにすぎない。

べムの認知的不協和理論に対する反論のポイントは、自分自身の直接的な経験による認知的不協和だけでなく、他者の経験を間接的に観察することによってもその認知的不協和を知ることが出来るというところにあった。即ち、感情の自己観察(直接経験と信じている感情)』と『感情の他者観察(他者シミュレーション)』に本質的な違いはないということ、新行動主義のスキナーの徹底的行動主義のように『本人にしか知覚できないプライベートな心理領域はそれほど広いものではなく、観察できる行動から内面が推測可能なこと』をべムは示そうとしたと考えることが出来る。

ベムの主張がこのようなものであれば、上に述べたところから全く賛成できない。

 

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https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210924-OYT1T50117/

この記事を読んでみて下さい。ベムの「自己知覚理論」は説得力があると考えられるでしょうか。

 

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