浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「正義の原則」による正当化と妥協

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(20)

今回は、第2章 エゴイズム  第4節 ディケーの弁明 1「正義は最善の政策」か の続き(p.69~)である。(D:正義論者、E:エゴイスト。緑字は傍点の代わり)

E:いや見事な議論だった。思わず聞き惚れてしまって、自分が批判されていることさえ忘れるところだったよ。ところで、細かいことだけど、一つだけ聞いていいかい。

D:どうぞ。

E:あんたの話に出てくるエゴイストたちには目と耳と口がちゃんとついているんだろうか。

D:勿論です。

E:それは見える目と聞こえる耳と喋れる口だろうね。

D:ええ。

E:それを聞いて安心した。あんたの話を聞いてると、何だかエゴイストってのは「窓のないモナド」じゃないかって、ライプニッツなんか読んだこともないくせに思えてきたもんだから。さて、そうすると彼らには話し合いというものができるわけだ。また目で相手の表情から語られざる意図を読み取ることも可能。要するに、彼らは相互に十分な意思疎通ができる。そう考えていいかね。

「窓のないモナド*1などという言い回しを聞くとつい詮索したくなるが、ここはライプニッツの哲学を論ずる場ではないから、「入出力が可能な構成体ではない単純な実体」→「他者と対話・交渉することのない頑固者」と軽く考えておこう。Dは、エゴイストは「見える目と聞こえる耳と喋れる口」を持っているというのだから、対話・交渉することが可能であるというわけだ。

E:利害の衝突が俺と誰かとの間に生じたら、俺は相手と会って交渉する。そして利己的態度はこの場合割が合わないってことをお互いに了解しあい、妥協を試みるさ。その際、二人の力関係や懸かっている自分の利害の重要性、相手の性格、その他両方の事情を色々と考慮した上で、ここは譲った方が得策だと思えば譲るし、強気で押すべしと思えば強気で迫る。相手の事情に同情したり、相手が特別に気に入ったりすれば、損得抜きで譲歩もする。反対に相手が頑固で、こちらも死活問題に関わることだったりすれば徹底抗戦の構えをとる。勝てばよし、負ければ仕方がない。いずれにせよ、常に利己的にならなければならない理由はないし、常に利他的になるべき理由もない。あんたのゲーム理論的論理は、当事者間の交渉という要素を捨象することによって初めて成り立っている点で、現実性に欠けてるよ。

Dは、次図のようなゲーム理論の枠組みで、エゴイストたちの「合理的」な選択(双方が「利己的態度」をとる)が、対立の泥沼化、悲惨な闘争を招く、と主張していた。(「ディケーの弁明」参照)

 

狐狸ノ空音

https://gamemarket.jp/game/172624

 

これは、Eが主張するように、「当事者間の交渉という要素を捨象している」という点で、明らかに現実性を欠いている。これは誰もが思いつくだろうが、それよりも次の指摘が重要である。

E:俺が今言ったような類の交渉による利害衝突の調整は、別段共有された正義原則なんてものが無くてもできる。だいたい、「権利」とか「義務」、「社会的効用」といった言葉で自分の要求を正当化したがる奴に限って、こういう正義原則に頼らないと利害の調整は不可能だと勝手に決め込んでしまうんだ。しかし、これが逆に示しているように、利害調整を困難にしているのは人の利己的態度そのものではなくて、むしろ自分の利己的態度を何らかの原則によって正当化しようとする願望だ。すべての者がこの正当化願望を棄てて、自分たちの利己心を利己心と認めたうえで、突き合わせ、交渉すれば、かえって利害調整は円滑にいく。人間は自分の利害に「権利」という名を与えた途端、それを神聖化してしまい、頑迷固陋になるものさ。

例えば、土地所有(私有地、領土)を巡る争いを念頭に、引用の文章を読んでみよう。「何らかの原則によって正当化しようとする願望」を棄てられるか?(抑制できるか?)。それが可能ならば、交渉も可能であろう。しかし、私または国による所有を絶対的な権利として正当化するならば、「頑迷固陋」な態度は避けられないようだ。

E:ところで念のために言っておくが…(※)

D:確かに私の説明は多少事柄を単純化しすぎていたようだ。原則[正義原則]抜きの交渉による利害調整の可能性についてのあなたの見方は、私にはまだ楽観的すぎるように思われるのだが、そうであるとしても、私の先の説明はもう少し洗練する必要がありそうだ。ただ、集団的エゴイズムの体制としての国家が、果たして安定した存在を持つことができるのか、この点は疑問に思われる。少なくとも国家の官僚機構の核心に位置する人びとが、国家に対する服従義務を内面的に受容していない限り、いかなる国家も実効的存在を確保できないのではないか。しかし、これらの点についての議論はまた日を改めてするとして、今は正義理念の正当化の問題を他の異なった角度から議論してみてみようではないか。

上にコメントしたように、「正義原則抜きの交渉による利害調整の可能性」は大きくはないように思う。正義原則をただ正当化するのではなく、正義原則そのものを議論することを避けているのではないか。正義原則を具体的な事柄に落とし込んで、議論/対話すること、これがいかにして可能になるかを考えなければならないと思う。

 

(※)本筋から離れた議論のように思えたので、ここに引用しておこう。

E:エゴイズムをアナキズムと一緒くたにしないようにお願いしたい。エゴイストは必要とあらば連合して国家という強制装置を設立し維持する。もっともエゴイストにとって国家とは集団的エゴイズムの体制に過ぎず、社会契約説がやっているようにそれに対する服従義務を正当化したりはしないけれど。従って、エゴイスト間の対立を無政府状態化における諸個人の対立と同視して、前者が後者と同様、悲惨な闘争に導くと想定するのは全く根拠がない。

前回省略したのだが、この対話の最初にアナキズムに対する言及がある。

アナキスト国家という強制装置は個人の自然権[何人も同意なくして自己の生命・身体・財産・自由を奪われない]を侵害せずには存在できないものと信じ込んでいる。そこでかの最小限国家論者[ノージック]は、所謂「夜警国家」クラスの国家(それ以上はダメ)ならどんな個人の自然権も侵害することなく成立できることを示せば、アナキストもその程度の国家の正当性を承認しないわけにはいかないだろうと考えた。基本にある社会契約説的発想は新しいものじゃないが、アナキズムを超越的・外在的に批判するのではなく、アナキズムの基本的な道徳的前提を承認した上で、すべての国家がそれに矛盾するわけではないことを示すという手法は心憎い。

アナキズムの思想(一切の権威、特に国家の権威を否定して、諸個人の自由を重視し、その自由な諸個人の合意のみを基礎にする社会を目指そうとする政治思想―ブリタニカ国際大百科事典)は興味深いが、その詳細検討はまだ先の話である。

*1:モナドには窓がないモナドは部分を持たない厳密に単純な実体であるから、複合的なもの同士が関係するような意味で「関係」することはできない。(Wikipediaモナド