浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

競争から共生へ、排除から包摂へ

香取照幸『教養としての社会保障』(30)

今回は、第9章【改革の方向性】「安心」を取り戻すために、どう改革を進めるべきか 第1節 安心社会の基盤をつくる である。

自立と連帯、競争から共生へ

  • スローガンは、「自立と連帯」、「競争から共生へ」である。
  • 社会保障の機能は、社会の公正を担保する、公平・公正な社会を実現することである。[フェアネス]
  • それは、格差や不公平、不公正をなくすこと、一人でも不幸な人を少なくしよう、ということである。

最初のスローガンであるが、「自立」と「競争」を強調するか、「連帯と共生」を強調するか。

「競争から共生へ」は、「競争×、共生〇」を意味するが、建前でそう言っているのか本音でそう言っているのか。

「自立と連帯」は、「自立から連帯へ」ではない。「自立または連帯」でもない。「自立かつ連帯」である。

「公平・公正」(フェアネス)は、「理念」である。(表立って)この理念を否定する者はほとんどいないだろう。

資本主義社会だから、競争の勝者には称賛と利益が与えられるべきであるが、独り占めは社会全体を停滞させる。社会の中で富が循環しなければ資本主義社会は維持できない。勝った人が社会的責任を果たし、負けた人が何度でも敗者復活戦に挑める仕組みをつくっておかないと社会は維持できない。富が偏在すると、最後には騒乱が起き、革命が起きる。そうならないように、先人が知恵を絞って作り上げてきたのが社会保障制度である。

「資本主義社会だから、競争の勝者には称賛と利益が与えられるべきである」と言うが、これはおかしい。「競争の勝者には称賛と利益が与えられるべきである」とする社会を「資本主義社会」と呼ぶ、と言うべきだろう。先ほどの「競争から共生へ」はどこへいったのだろうか。

「社会の中で富が循環しなければ資本主義社会は維持できない」と言うが、「富(資産、資金)の循環」とはどういう意味か。なぜ資本主義社会を維持しなければならないのか。

「勝った人が社会的責任を果たす仕組み」と言うが、そんなルール(法)や仕組みは聞いたことがない。必要とされる物・サービスを供給して、利益を上げたら税金を納める、ということで「社会的責任」を果たしているという主張に対して、どう反論するか。

「負けた人が何度でも敗者復活戦に挑める仕組み」と言うが、とてもそんな仕組みが作られているとは思えない。それでも「社会は維持されている」。

「富が偏在すると、最後には騒乱が起き、革命が起きる」と言うが…???。今の日本は、富が偏在していないので、騒乱も革命も起きていない…???。

「そうならないように、先人が知恵を絞って作り上げてきたのが社会保障制度である」…牽強付会ではないか。

社会保障制度」の意義は、競争や資本主義維持の話からではなく、「自立と連帯」、「競争から共生へ」の理念から説明すべきだろう。

 

格差と経済成長

香取は、OECDの「格差と成長(Focus on Inequality and Growth)」なるレポート(2014/2)を紹介している。このレポートについては、特集: 格差と成長 – OECD を参照。

香取は、次のように述べている。

OECDは「所得格差の拡大は経済成長を低下させる」と明確に指摘している。~などの指摘をしたうえで、「租税政策や移転政策による格差への取り組みは、適切な政策設計の下で実施される限り、成長を阻害しない」と述べている。

この統計分析がどれだけ信頼に足るものかはわからない。ただ、「格差」(ジニ係数)と「成長」(GDP成長率)を関連付けようとする発想自体に違和感がある。所得格差の拡大は経済成長を低下させるから、所得格差はいけない? 「所得格差の縮小」と「経済成長」、どちらが重要なのか?*1

 

では、社会的公正はどう担保すればよいのか。社会主義国家のように、競争のない社会で平等に分配すればよいのかと言えば、そうではなかったことは歴史が証明している。競争のない社会では、みんなそこそこにしか働かないため、社会は活力を失い成長しない。OECDのレポートにあるように、「適切な政策設計の下に実施される租税政策・移転政策(=社会保障政策)」が必要である。

社会主義国家とはロシアや中国のことか? ロシアや中国は競争のない社会なのか? 分配は平等なのか? 歴史が証明しているとどうして言えるのか? 競争のない社会ではみんな「そこそこ」にしか働かないって本当? 逆に、競争のない社会でみんな「そこそこ」に働く社会って理想的ではないか?

 

社会的包摂

https://www.mie-u.ac.jp/R-navi/column/cate006/FukaiHideki.html

 

今、日本の社会で拡大しつつある格差や貧困を解消するために為すべきことは、規制緩和ではなく新しいルールを作ることである。その中で社会保障にできることは、社会の分裂を防ぎ、より多くの人々が社会統合の輪の中にとどまっていられるようなルールを作ることである。大事なことは、排除ではなく包摂、分裂ではなく統合である。

排除ではなく包摂」のためのルール、「分裂ではなく統合」のためのルール、が求められている。そのことに異論はない。そのための具体的なルールをどのように作るのかが問題である。

貧困や格差は第一義的に解決すべき問題である。…社会のシステムから零れ落ちた人たち[失業者]を、再び現役の労働者として、地域社会の一員として、自立した市民として市民社会の中に取り込む、そのような解決である。そのためには、職を失い行き場を失っている人たち[失業者]が自立できるように、自助努力を地道に支援し続けることが大事である。政府が直接の主体とならなくても、NPOなどの団体が支援活動をしやすい枠組みを作りという方法もある。市民社会の自律性という意味ではむしろそのやり方のほうが良いかもしれない。

失業者に教育訓練を施し就労できるよう支援する。それは必要なことかもしれない。しかし、それで「排除ではなく包摂」、「分裂ではなく統合」がなし得るのか? 不況→解雇→失業手当→教育訓練→(有期雇用の)低賃金労働→不況(で一周)。抜本的解決が必要と感じられないだろうか?

様々な困難を抱える人たちを社会から排除するのではなく、できる限り社会の枠組みの中に取り込み、参加を保障し、それを通じて自立支援していく。労働者であれば、正社員であろうが非正規社員であろうが等しく被用者保険の適用が受けられる、働く人間は全て雇用が守られる。できり限り社会のシステムから落ちこぼれる人間をつくらない、誰もが社会の構成員として参加し続けることができるというルールを作る。その方が社会としても負荷が小さく、社会全体のリスクは小さくなる。働ける人がみんな働ける社会のほうが活力があり、成長する。それは自明なことではないか。

失業者だけの話ではない。病弱者や障害者や要介護者を含め、「様々な困難を抱える人たち」を社会から排除するのではなく包摂する。「誰もが社会の構成員」なのである。

Wikipediaは、次のように述べている。

社会的排除論は単に経済力に裏打ちされた社会的地位*2だけではなく、職業・健康・教育・家庭環境・国籍・ジェンダー・年齢層・地域環境など、多元的なリスクによって決定される格差によって、人々を社会の中心に近いインサイダーと、社会から排除されたアウトサイダーに峻別すると考える新しい社会的不平等の概念である樋口明彦)。(Wikipedia、社会的包摂)

「社会的包摂」の概念は、「社会的排除」の概念の対極にある。

私たちは、何ごとかを為すにあたって、「社会的地位、職業・健康・教育・家庭環境・国籍・ジェンダー・年齢層・地域環境など」によって差別(社会的排除)してはいないか? 性差別や人種差別だけの話ではない。年齢差別、学歴差別外国人差別、宗教差別などお馴染みのものであり、「社会的包摂」は容易ではない。

*1:経済成長→貧しい者にも自然に富がこぼれ落ちる、という説もある。

*2:ここでの社会的地位は「経済力に裏打ちされた」社会的地位である。言い換えれば、所得・資産により評価された社会的地位である。俗な言い方をすれば、金持ちか貧乏人かにより、その人を評価するということである。