浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

そのリンゴは赤くない ー「普遍化可能性」の議論

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(21)

今回は、第2章 エゴイズム  第4節 ディケーの弁明 2 普遍化可能性(p.71~)である。(D:正義論者、E:エゴイスト。緑字は傍点の代わり)

正義理念の正当化の問題について、D(ディケー)は一つの例から始めている。次のような説明である。(「あなた」をY、「彼」をHと置き換えた)

  • Yは、一つのリンゴを指さして「これは赤い」と言った。
  • Yは、その後、色・形・大きさ等、外見が全く変わらない別のリンゴを指し、「これは赤くない」と言った。
  • Hは、Yが外見の変わらない2つのリンゴについて、なぜ正反対の2つの言明をなしたのかと問うた。

Yは、①を「赤い」と言うが、②を「赤くない」と言う。普通の人は、「2つとも、赤いじゃないか。あなたは間違っている」と言うだろう。もう少し謙虚な人は、「なぜ、②は赤くないのか?」と問うだろう。

③との比較で言えば、Yは、①を「赤い」と言うが、③を「赤くない」と言う。普通の人は、「③も、赤いと思うが。でも、ちょっと違うかな」と言うだろう。「なぜ、③は赤くないのか?」と問う人が増えるだろう。

D: Yは、一方のリンゴが持ち、他方のリンゴが持たない何らかの特徴を挙げなければならない。もし、これができないならば、Yは自分の2つの発話が論理的に矛盾していること、それ故少なくとも一方が誤っていることを承認しなければならない。

Yは、自分の発話の根拠を次のように述べる。

カラーコードは色を数値化するものだが、①はRGB(255,0,0)であり、②はRGB(255,0,10)であり、③はRGB(255,0,102)である。①は「純色」の赤色であるが、②③は純色ではないので、赤色とは呼ばない。このように明らかに異なるものを、同じ言葉「赤色」と呼ぶのは適切ではない。

D: Yがある対象について何かを述べたとき、Yはその対象と重要な点で類似したあらゆる対象について同じ述定をなすことに論理的にコミットしている。

①②③いずれもR(255)である。これは「重要な点で」類似しているだろうか。もし重要な点で類似しているとみなすならば、いずれも「赤い」と言わなければならない。①②③は、G、Bが異なる。G、Bも「重要な点」とするならば、そして①を「赤い」と呼ぶならば、②③は「赤くない」。何を「重要な点」と捉えるか?

D:何が「重要な点」かは、Yがある対象についてなした述定を、その対象と一応類似した他の対象については否定した時、Yが両者を区別する特徴として何を挙げうるかに依存する

Yは、G、Bを「重要な点」としたのならば、Yは「正しい」…と言えるかどうか。HがG、Bを「重要な点」としないのであれば、Yは「正しくない」。ここまでの議論では、「重要性」の判断基準が示されていないので、何とも言えないと思われる。

D:「論理的にコミットする」とは、Yがある対象についてなした述定を、他の類似した対象については否定しておきながら、両者を区別する特徴を挙げ得ないならば、Yは論理的矛盾を犯したものとみなされるということである。

D:このような区別のための特徴は述定の「理由」を為すものである。しかもそれは「普遍的」な理由である。…特定の対象についての述定行為は、このような普遍的理由の存在想定を、その意味の一部として含んでいる。

D:それ故、述定主体は、その対象と重要な点で類似したすべての対象に同一の述定を為す普遍的言明(例えば、「このリンゴと同じ色を持つすべてのものは赤い」)にも論理的にコミットしている。

RGBすべてにおいて同一であるならば、「同じ色」であり、それはリンゴに限られるものではない。すべて「色を持つ物体」にあてはまるのであり、普遍的である。

D:つまり、述定主体は、論理的矛盾を犯すことなしには後者を否定できない。この意味において、特定対象についての述定行為は「普遍化可能」である。

リンゴの色についての言明は、RGBベースの色の定義に基づくならば、他の物についても適用可能であり、普遍化可能性を持つ。

しかし、色の定義は、何もRGBに限られるわけではない。従って、正確・厳密な議論が必要となる場面では、議論の前提となる用語の定義が必須である。

D:さて、このような意味での「普遍化可能性」を持つのは「これは赤い」のような「である言明」だけではない。「XはAすべし」のような当為言明も普遍化可能である。*1

D:当為言明は、Xについて、あることを、即ち、XとAとの規範的関係を述べている。従って、「XはAすべし」という当為言明を為した者、あるいはそれに同意した者は、まさにそのことによって、「Xと同じタイプに属するすべての者はAすべし」という普遍的当為言明に論理的にコミットしている

D:勿論、当為言明は、単に行為主体についてだけではなく、それが言及している特定の行為主体や、特定の行為条件等についても同様に普遍化可能である。(p.73)

ある「重要な点」あるいは「特徴」において、「同じ」であるという合意が得られるならば、当為言明についても、「普遍化可能性」の議論は成り立つ。

いま私は「合意」という言葉を使ったが、これと「普遍化可能性」との関連については、未だ曖昧なままなので、今後考えることにしたい。

道路交通法施行令」第2条において、信号の色は、青色、黄色、赤色と定められている。では、上図の信号は「青色」なのか。小学生に聞いてみるとよい。「この信号の色は、青ですか、緑ですか?」。

慣習として「青」と呼ぶことは誰もが知っている*2。では、正確で、厳密であるべき法律が、このような慣習を認めて良いのかどうか。「この信号機は、道路交通法施行令第2条違反の<緑色>を使っている」と主張することは、誤りか否か。この信号は「青い」と言うことは、「普遍化可能性」を持つかどうか?

D:当為言明のこの普遍化可能性は、私たちの当面の問題に直接の関りを持っている。エゴイストは自己または他者について一定の当為判断を下しても、同じ状況に置かれた他者または自己については、自己が自己であり他者が他者であるという理由だけで、同様の当為判断を下すことを拒否する。…当為言明の普遍化可能性により、エゴイストは正義の禁止に抵触するこのような振る舞いにおいて、論理的矛盾を犯していることになる。

上に見たように、ある「重要な点」あるいは「特徴」において、「同じ」であるという合意が得られるならば、当為言明についても、「普遍化可能性」の議論は成り立つだろうが、このような合意が得られていない状況では、当為言明の普遍化可能性は主張し得ないのではなかろうか。

D:確かに、二つの状況が完全に同一であることはあり得ず、両者を区別する何らかの特徴を挙げることは可能だろう。しかし、もしエゴイストがこのような特徴を挙げることによって論理的整合性を繕うならば、それはエゴイズムの救済であるどころか、逆に哲学としてのエゴイズムの自殺を意味する。なぜなら、この時エゴイストは「普遍的理由」にリップ・サービスを払うことにより、「自己性」を理由とすることの正当性を、少なくとも建前においては否認しているからである。

D:従って、エゴイストはエゴイストである限り、その合理性の僭称にも拘らず非合理たらざるを得ない。しかも「非論理的」という最も強い意味において非合理なのである。これに対し、正義の禁止に従うことは、規範的判断の論理的無矛盾性のための必要条件なのである。このことは正義の禁止の正当性を示す決定的な根拠と言える。

「両者を区別する何らかの特徴を挙げること」が、論理的整合性を「繕う」ことになるのかどうか、普遍的理由に「リップ・サービスを払う」ことになるのかどうか、Dの主張に全面的には賛成し難い。(と言ったからといって、勿論、エゴイストの主張に賛成しているわけではない)。

E:ほう、さっきのソフトな戦法とは打って変わって、今度は随分と高飛車に出てきたじゃないか。それじゃ、こっちも根本的なところから突かせてもらおうか。

さて、E(エゴイスト)はどのように反論するのだろうか?

*1:D:勿論、「X、Aせよ」のような命法は普遍化可能性を持たない。この命法はXについて何かを述べるのではなく、Xに指図しているだけだからである。

*2:「日本人は、瑞々しい緑色の野菜や春の鮮やかな新緑、緑の芝生などを<青々としている>と表現してきた民族であり、緑色を青色と表現する日本独特な文化的背景がある」らしい。(https://kuruma-news.jp/post/362801