浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

普遍化可能性の原理は、当為言明に妥当するのか?

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(22)

正義の理念が含意する禁止」、「集団的エゴイズム」の概念を念頭に、下の写真を見てみよう。

8日、キーウ(キエフ)の街角に飾られた「クリミア橋」爆破を描いたアート作品を前に記念撮影するウクライナ人たち。(EPA時事)

https://news.yahoo.co.jp/articles/4955c431e3dba35980a3ab241c23afddb828171a/images/000

**********

今回は、第2章 エゴイズム  第4節 ディケーの弁明 2 普遍化可能性 の続き(p.74~)である。(D:正義論者、E:エゴイスト。緑字は傍点の代わり)

E:今度は随分と高飛車にでてきたじゃないか。それじゃ、こっちも根本的なところから突かせてもらおうか。

E:第1に、論理性と合理性とをそう簡単に直結させていいものかどうか疑問である。嘘をつくことが時には合理的であるように、矛盾したことを言うことだって合理的である場合がある。矛盾を気にせずに喋って人を説得するというのは、まさに政治家の最高の叡智の一つだろう。自分の目的に適した手段を考察する際の推論の過程で矛盾を犯すのは確かに合理的ではないが、矛盾したことを言うこと自体は必ずしも非合理ではない。かえってそれが自分の目的追求に役立つことがある。

Eの主張は、「論理性=合理性ではない。非論理的でも(矛盾したことを言っても)合理的な場合がある。なぜなら、自分の目的追求に役立つことがあるからである」というものである。「合理性」という言葉をどういう意味に使うか。

E:合理性が社会的行為のレベルで問題にされる場合には、合理性は目的と手段というカテゴリーに結びつけられる。たとえばM.ウェーバーは、〈目的合理的行為〉と〈価値合理的行為〉を区別する。目的合理的行為とは、一般に任意の目的が与えられた場合に、行為がその目的を達成するのにもっとも効率的に組織されていることをさし、価値合理的行為とは、特定の目的そのものの価値が肯定的に前提され、その目的の実現にふさわしいように行為が組織されていることをいう。(世界大百科事典)

ウェーバーの区分に従えば、Eが上記で主張する合理性は、目的合理性になろう。それは、価値とか当為には関係ない。しかし「与えられた目的」が何らかの「価値」を含むものであれば、その目的合理的行為は、価値合理的行為となる。

Dが主張する合理性は、価値合理性になるのではないかと思われる。なお、Dは、論理性と合理性を直結させているのかどうか、本節を読み返してみたがよくわからなかった。無矛盾性、首尾一貫性を重視する点においては、論理性≒合理性とみているようであるが。

E:合理性が首尾一貫性を意味するとしても、だからといってエゴイストが非合理だということにはならない。エゴイストには「自己性」という首尾一貫して依拠する根拠がある。…合理性の問題というのはあまりに根本的過ぎて簡単に片が付きそうにないから、これにこだわるのはやめよう。ここでは「議論の便宜上」、合理性についてのあんたの前提(エゴイストが論理的矛盾を犯さざるを得ないならば、エゴイズムは非合理な立場として退けられるべきである)を一応承認しておく。しかし、ではエゴイストは本当に論理的矛盾を犯しているのだろうか

合理性の議論は保留して、第2の論点に移る。

E:第2に、あんたの言う普遍化可能性の原理が果たして当為言明に妥当するのか。…極限的利他主義者は、「一人の命よりは多くの命を」という格率を優先させ、「俺は犠牲になるべきだ」と判断した(他人には、犠牲を要求しない)。…この判断は「理由」の存在想定をその意味の内に含む当為判断であって、「自己を犠牲にせよ」という単なる命法ではない。…それではこの当為判断は普遍化可能性を持つだろうか。答えは否だ。彼はこの当為判断を自分自身についてだけ妥当させ、その普遍化可能性を排除しているからこそ、正のエゴイストとしての極限的利他主義者たり得るのであり、道徳的英雄として承認される。彼の当為判断が想定している理由は、いわば「個人化された普遍的理由」である。彼が自己についてのこの当為判断と同様の判断を、同じ状況に置かれた他者については拒否したからといって、彼が論理的矛盾を犯したと非難する者はいない。

…この反例は普遍化可能性原理の適用可能性の限界を示していると同時に、この原理が当為言明の分析から帰結する論理的テーゼであるという主張に対する反例でもある。従って、普遍化可能性原理の独立[成立]の根拠が別にまた示されない限り、この原理によってエゴイズムに非論理性・非合理性の烙印を押すことはできない。

Dは、「普遍化可能性の原理は当為言明に妥当する」と主張していた。

D:「普遍化可能性」を持つのは「これは赤い」のような「である言明」だけではない。「XはAすべし」のような当為言明も普遍化可能である。…「XはAすべし」という当為言明を為した者、あるいはそれに同意した者は、まさにそのことによって、「Xと同じタイプに属するすべての者はAすべし」という普遍的当為言明に論理的にコミットしている*1。(p.73)

Eは、「俺は犠牲になるべきだ」を「当為判断」であるが、普遍化可能性を排除しているという。何故なら、この当為判断を「自分にだけ妥当させ、他人には妥当させない(要求しない)」からであるという。この当為判断には、「個人化された普遍的理由」を含むという。

個人化された普遍的理由? 意味不明である。Dの普遍的当為言明(Xと同じタイプに属するすべての者はAすべし)の主張には説得力がある。

D:「個人化された普遍的理由」というのは形容矛盾ではないか。…言葉の詩的効果をもって論証に代えるのは、知を求める者の作法に反する。…かの利他主義者は「一人の命よりは多くの命を」という普遍的理由に基づいて、自己に関する当為判断を為した以上、この理由が妥当する同様の状況に置かれた他者についても、同様の判断を為すことに論理的にコミットしているのである。そもそも論理的コミットメントは判断主体が自分の意志で勝手に制限したり排除できるものではない。…確かに、彼は他者についてこのコミットメントに反した判断をしたとしても、道徳的過失を犯したとはみなされない。しかし、そこから彼が論理的過失も犯していないと言う結論を導くことはできない。あなたは私が合理性と論理性を混同していると批判されたが、道徳的過失と論理的過失を同視することにおいて、あなたのほうは道徳性と論理性を混同しているのである。

彼(利他主義者、個体主義者)は、他者に「一人の命よりは多くの命を」という普遍的理由に基づく行為を要求しなくても、道徳的過失を犯したとはみなさない。しかし、彼が「この理由が妥当する同様の状況に置かれた他者についても、同様の判断を為すことを要求しない」のは、論理的過失を犯している、というDの主張は正しいと思われる。

E:道徳性と論理性とが別のものなら、何故エゴイズムは人に論理的矛盾を犯させるという理由で、道徳的に斥けられなければならないんだい。

D:私は何もエゴイズムの不道徳性と正義の道徳性を示そうとしているのではない。私はただ正義の禁止が何らかの仕方で正当化し得るか否かを問題にしている。私はこの問題に対し、合理性の要請に従う限り、正義の禁止の正当性が承認されなければならないと主張している。

Dは、「エゴイズム(個体主義)は、道徳的過失を犯している」とは言っていない。「論理的過失を犯している」と言っている。Eの誤解だろう。

なお、正義の禁止(=正義の理念が含意する禁止)とは、

個体的同一性における相違を理由にした差別一般。(P.53)

自己性を差別的行動のための理由とすることの禁止、即ち固有の意味でのエゴイズムの排除。(P.59)

自己の個体的同一性を差別的行動の理由とすること。(P.60)

であった*2

D:確かに、合理性は一般に非合理性よりも道徳的に高く評価されるから、正義の禁止が合理性の要請によって正当化されると言うことは、この禁止が一応の道徳的正当性をも有することを意味する。しかし、正義の道徳的正当性は絶対的ではない。残念ながら(と私は言いたいのだが)、道徳はときに非合理性のほうを選ぶ。これがなぜなのか、私には謎である。

道徳の話は簡単ではないので、別途としよう。

E:当為言明が普遍化可能性を持つというのは、俺にはまだしっくりこないがが、まあいいや、あんたの真似じゃないが、「また日を改めて」この点は議論しよう。ここでは当為言明の普遍化可能性を、またまた「議論の便宜上」仮に前提したうえで、俺の第3の疑問に移りたい。

以下は、次回に。

*1:論理的にコミットする」とは、Yがある対象についてなした述定を、他の類似した対象については否定しておきながら、両者を区別する特徴を挙げ得ないならば、Yは論理的矛盾を犯したものとみなされるということである。(p.72)

*2:ディケーの弁明(2022/4/14)参照。