浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「~は、陰謀論である」とまでは言えない

野矢茂樹『新版 論理トレーニング』(8)

今回から、第Ⅲ部 演繹 である。第7章 否定、第8章 条件構造、第9章 推論の技術 となっている。

野矢は「演繹」について次のように述べている。

  • 演繹は、論証のための基本技術である。
  • 正しい演繹は、絶対確実な導出を与える。
  • 推測(仮説形成)は、証拠となる事実からそれを越えた仮説へと、いわば生産的な飛躍を試みるものであるが、演繹は一切の飛躍を許さない。
  • 演繹は、提示された主張の内に含まれている内容だけを取り出してくる。その主張に含意されていない内容を読み取ることを禁じる。
  • 演繹は、論証の組立と批判において、最も鋭利な武器となる。
  • 現代論理学の基本的な体系は「述語論理」と呼ばれる。
  • 「述語論理」は、否定詞接続詞、「すべて」、「存在する」という僅かな語彙に基づいて成立する演繹的推論を体系化したものである。
  • 本書の目的は論理学入門ではない。論証の基本技術をトレーニングすることに関心がある。有益で生き生きとした演繹の力を身につけ、そうしていっそう正確で強靭な論証と批判を可能にすることに目的がある。

まず、第7章 否定 から。

否定と反対

「A」と主張されたとする。…それに対して、「それは違う」とか「そんなことはない」と応じる時、そこで意味されていることを「Aの否定」と呼ぶ。Aのひていは、「Aということはない」とか「Aというわけではない」と書くことができる。

「太郎は来るはずだ」の否定は、どういう表現になるか?

「太郎は来るはずがない」は、「太郎は来るはずだ」の否定ではない。…「太郎は来るはずがない」は、確かに「太郎は来るはずだ」と両立不可能な主張である。だが、「太郎は来るはずだ」と両立不可能な主張はそれだけではない。「太郎は来るかもしれないし、来ないかもしれない」という主張もまた、「太郎は来るはずだ」と両立不可能な主張である。

野矢の図解が明快である。

「来るはずがない」(b)を、Aの「反対」と呼ぶ。「来るかもしれないし、来ないかもしれない」(a)は、Aと両立不可能な主張である。ここで、両立不可能なすべての場合をカバーするものとして、Aの「否定」と呼ぶ。

この中間の(a)が重要である。「それは違う」というとき、(a)を含めて言っていることを理解しない人が多いように思われる。

冤罪

「彼は犯人である」の否定を考えてみよう。この例は、「否定」と「反対」の論理を理解する格好の例だろう。

犯罪報道において、マスメディアは警察が逮捕しただけで、犯人であるかのごとく扱い「実名報道」をする。しかし、裁判において確定するまでは(確定しても冤罪である可能性はゼロではないが…)、「匿名報道」すべきである。(a)は、「推定無罪」として扱わなければならない(無罪推定の原則)。「実名報道」は人権侵害だろう。*1

https://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/becoming/mind.html

陰謀論

「ワクチンを打つべきだ」の否定を考えてみよう。次のようになろうか。*2

(b)は、「打たないべきだ」をわかりやすく言い換えたもの。(a)は、「打つべきかもしれないし、打たないべきかもしれない」を分かりやすく言い換えたものである。この(a)の表現は「打つべきだとまでは言えない」とも言い換えられる。これは法律家がよく使う言い回しだが、理解していない人が多そうだ。

「打つべきだ」という人に、私が控えめに「それはどうかな」と言うとき、Aを「否定」しているのだが、それは(a)の意味で言っている。しかし、かなりの人は(b)の「反対」の意味に曲解する。

「ワクチンは(危険だから)打ってはならない」の否定を考えてみよう。

Aは「陰謀論」と呼ばれることがある。そしてそのような主張は言論空間から排除されることがある。「打ってはならない」という人に、私が控えめに「それはどうかな」と言うとき、Aを「否定」しているのだが、それは(a)の意味で言っている。しかし、Aを信じている人は(b)の「反対」の意味に曲解する。この(a)の表現は「打ってはならないとまでは言えない」とも言い換えられる。

 

「かつ」と「または」

「かつ」[and]に代表されるような接続関係を「連言」と呼び、「または」[or]に代表されるような接続関係を「選言」と呼ぶ。

ここで、連言や選言の「否定」はどうなるか。

例1「花子は太郎と次郎にメールを出した」という連言文の「否定」は?

①花子は太郎にメールを出さなかった。②花子は次郎にメールを出さなかった。③花子は太郎にも次郎にもメールを出さなかった。という3つの場合が含まれる。まとめて書けば、「花子は太郎にメールを出さなかったか、または次郎にメールを出さなかった」となる。

連言文「AかつB」の否定は、Aの否定とBの否定の選言、「(Aではない)または(Bではない)」となる。

例2「花子は太郎か次郎にメールを出した」という選言文の「否定」は?

この選言文を否定するには、「花子は太郎にメールを出した」と「花子は次郎にメールを出した」という主張の両方を否定しなければならない。

選言文「AまたはB」の否定は、Aの否定とBの否定の連言、「(Aではない)かつ(Bではない)」となる。

野矢は、この連言文と選言文との否定に関する関係(ド・モルガンの法則)をわかりやすく図解している。例1、例2のような例をあげて日本語で説明されると理解しやすいが、これを一般化して記号で説明されると難しく感じる。野矢は面白い図解をしているのだが、ベン図で理解するのが一般的だろう*3

 

「すべて」と「存在する」

「すべてのSはPである」のように、あるもの達すべてについて何事かを主張する文を「全称文」と呼び、「Sの中にPであるものが存在する」のように、何かの存在を主張する文を「存在文」と呼ぶ。

例3「このクラスの学生は全員靴下をはいている」という全称文の「否定」は?

「全員靴下をはいていない」という場合だけではなく、「靴下をはいている人も、はいていない人もいる」という場合にも、この文の否定になる。これをまとめて「靴下をはいていない学生がいる」と表現することができる。

全称文「すべてのSはPだ」の否定は、「PではないSが存在する」という「存在文」となる。

例4「このクラスに水虫の学生がいる」という存在文の「否定」は?

これを否定するということは、このクラスに水虫の学生はいないと主張することであり、それはすなわち、「すべての学生は水虫ではない」と主張することである。

存在文「Sの中にPであるものが存在する」の否定は、「すべてのSはPではない」という全称文となる。

全称文と存在文に関するこうした関係もまた「ド・モルガンの法則」と呼ばれる。

 

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and の意味

「論理学の用語で、A,Bを2つの名詞あるいは二つの命題(文)とするとき、〈AそしてB〉[A and B]をAとBの連言といい、〈AまたはB〉[A or B]をAとBの選言という」(世界大百科事典)。

ここで「A and B」というとき、基本的にA,Bが同時に成立するものでなければならない。例えば、「すぐれた才能」と「美しい容姿」であり、両者を兼ね備えたものを「才色兼備」という。

ところが、例1「花子は太郎と次郎にメールを出した」の「太郎と次郎」は基本的に同時に成立しない。ベン図で言えば重なり合うところがない。(花子と太郎であれば、重なり合うところがあるかもしれないが…)。重なり合うところがなければ、これを「空」という。例1は、「花子は、太郎にも次郎にも、メールを出した」という意味ではなく、「花子は<空>にメールを出した」という意味になる。これは例が適切ではない。それでも、ド・モルガンの法則は成り立つ。

 

…と、私は書いてみたのだが、読みかえしてみてこれは視野狭窄だなと思った。論理学の世界ではandは「かつ」であり、論理積(重なり)を意味するのが常識なのかもしれないが、「と」や「and」の意味は論理積(重なり)に限られるわけではないだろう。例1の「太郎と次郎」は、そこを気づかせてくれる。「と」を考えることによって、世界が広がる(ちょっと大袈裟か)。そこで、「GNLBHFRV-GB-WHAXN」(仮題)(※)を書くことにしたが、それは次回に。

(※)お遊び…この仮題は、極めて単純な暗号(それでも知らない人には難しい)ですが、ヒントは次の動画にあります。

Chopin: Nocturne No. 13 in C Minor, Op. 48, No. 1

www.youtube.com

*1:日本弁護士連合会「人権と報道に関する宣言」参照。

*2:野矢は、「……すべきだ」という表現の場合も同様であるとして、例題1で、「花子は休むべきだ」の反対を、「花子は休むべきではない」としている。「花子は休まないべきだ」はまともな日本語ではないから、「花子は休むべきではない」を解答としている。しかし、私は「花子は休むべきではない」は、「花子は休むべきだ」を否定しているのであって、中間の(a)を含んでいると思う。

*3:例えば、「ドモルガンの法則とは?ベン図や例題でわかりやすく解説!」参照。「AかつB」の否定のベン図は、ドモルガンの法則②で示されている。「AまたはB」の否定のベン図は、ドモルガンの法則①で示されている。