浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

行為主体は、自由と順境に対する権利主張にコミットしているのか?

井上達夫『共生の作法-会話としての正義-』(23)

今回は、第2章 エゴイズム  第4節 ディケーの弁明 2 普遍化可能性 の続き(p.78~)である。(D:正義論者、E:エゴイスト。緑字は傍点の代わり)

 

第3の疑問

Eが提起する第3の疑問は、「なぜエゴイストは当為言明を使用しなければならないのか」である。

E:エゴイストはそもそも当為判断をする必要があるのか。命法を使用して指図するだけでは、なぜダメなのか。*1…同様の二つの状況について正反対の二つの命法を発しても、普遍化可能性には触れない。従って命法だけで済ましていれば論理的矛盾を犯しているという批判を受けずに済む。だとすれば、なぜエゴイストは、わざわざ「当為のゲーム」に参加して自分の首を締める必要があるのか。

D:その問いには「それはエゴイストも行為する主体だから」と答えよう。

行為主体であると、なぜ当為判断をしなければならないのか。Dは概ね次のように主張する。

  • 人は誰でも行為主体である限り、何らかの目的のために何かをしている。
  • 目的というのは、何らかの意味でその行為の主体にとって善きもの、あるいは価値あるものである。
  • 個々の目的が主体にとって価値を持つのは言わば偶然的なことである。主体は偶々(たまたま)ある目的を追求し、それを追求している限りで、それに価値を認めている。
  • 追求される目的が、それが何であれ主体にとって価値あるものであれば、およそ目的追求なるものが可能であるための必要条件[目的追求一般を可能にする諸条件]も主体にとって価値あるものである。
  • 目的追求一般を可能にする諸条件は、どんな目的を追求するにも常に必要とされるところの必然的な価値である。
  • 主体にとってのこのような必然的な価値[目的追求一般を可能にする諸条件]とは、第1に、強制されずに何らかの行為を選択し、その実行を自己の意志によって統御すること、つまり「自由」である。第2に、それは、この自由の行使を可能にし、意味あるものにする諸条件である。つまり、およそ行動するために必要な限りでの生命・身体の保全、目的実現の総計の不減少および増加である。これらをまとめて仮に「順境」と呼ぶ。どんな目的の追求であれ、それが可能であり、また、為されるに値すると感じられるためには、「順境」の条件が必要である。

「目的実現の総計」とは何だろうか。わからないのでここは無視する。「順境」という言葉は初めて聞いたが、「物事が都合よく運んでいる境遇」の意味で、対義語は「逆境」であるそうだ。

第2の条件は、生命・身体の保全以外にどういうものがあるのかよくわからないが、第1の意味での「自由」の行使を可能にし意味あるものにする諸条件と抽象的に理解しておく。

 

第3の疑問に対する答

D:主体にとっての[目的追求一般を可能にする諸条件の]必然的価値と[目的の]偶然的価値との区別を念頭に置けば、あなた(E)の問いは、次のように答えることができる。

D:人は主体である限り、偶然的価値[目的]については命法[~せよ]で済ますことができたとしても、必然的価値[目的追求一般を可能にする諸条件]については一定の当為判断[~すべし]にコミットせざるを得ない。なぜなら、人はまさに主体であることによって、好むと好まざるとに関わらず自己の「自由」と「順境」に対する権利主張を持ってしまっているからである。

この権利主張の放棄は目的追求一般への自己の可能性の放棄を意味する。しかし、人は行為する限り主体であり、この権利主張を放棄できない。このことは、主体たるあらゆる個人は「何人も私の自由と順境を阻害すべきではない」という当為判断にコミットしていることを意味する。「個の自由」を強調するエゴイストにおいてはこのような当為判断へのコミットメントはなおさらのことだろう。

Dのこの「人は行為する限り主体であり、この権利主張を放棄できない」という言説はわかりにくい。Eが茶化している。

E:権利主張とは驚いたね。人が自己の要求を権利の名によって正当化することを、もっとも忌み嫌っているこの俺にして、すでに権利を主張しているってわけかい。

Dの話を聞こう。

D:主体が自由と順境とに対する権利主張を持つというのは、主体が自由と順境とに対して自分が権利を持つと信じているとか、現実にそれを主張しているという意味ではない。それは、人が行為主体であるというまさにそのことによって、この権利主張にコミットしているということである。

例えば、あなたは、あなたが私に反論しているときに、私があなたの口を封じるために、いきなりこの右手に持った剣で、あなたに切りかかるかもしれないなどと案じたりはしていないだろう。このような事態の出現が一定の物理的蓋然性を持つにも拘わらず、あなたが安心して議論に集中していられるのは、あなたが、私はあなたの自由と順境をそういう仕方で阻害すべきではないという当為判断を無意識のうち受容し、しかも、私もそれを受容しているはずだと前提しているからである。問題にされたような事態は物理的に可能であっても、規範的には可能ではないとあなたが前提しているからこそ、あなたは安心していられる。

Eが反論する。

E:違うね。……

Eがどのように反論するのか興味深いが、その前に、ここまでのDの主張を考えてみたい。

 

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人は行為主体であることによって、自己の「自由」と「順境」に対する権利主張にコミットしているのか?

言葉の用法を明確にしたい(私見)。

  • 行為主体とは、自分の意志・判断に基づいて行為する人をいう。主体的に行為している人である。人は何らかの目的をもって行為している。何もしないで(考えないで)ただぼんやりしているときも、「休息」という目的的行為とみることができる*2
  • 権利主張…「~する権利がある*3」とは、法的根拠/道徳的根拠/科学的根拠に基づき、正当に「~すること」ができるという意味である。
  • コミッットする…「~に対する権利主張にコミットする」とは、この文脈では、<「~する権利がある」という主張に同意(賛成)している>とほぼ同義である。

ではなぜ「行為主体」であると、「自由」と「順境」に同意(賛成)することになるのか。

「自由」と「順境」は、「目的追求一般を可能にする諸条件」であった。「行為主体」は、主体的に目的をもって行為する。であれば「目的追求一般を可能にする諸条件」がなければならない。

すなわち、主体的に目的をもって行為する人は、他者から強制されることなく、何らかの行為を選択し、自己の意志によってコントロールする人である。

もし私が、他者(社会、AI)から強制されて、何らかの行為をしている(していない)とすれば、私は「行為主体」ではなく、「ロボット」である。

 

*1:「である言明」だけでなく、「XはAすべし」のような当為言明も普遍化可能である。「X、Aせよ」のような命法は普遍化可能性を持たない。この命法はXについて何かを述べるのではなく、Xに指図しているだけだからである。(p.73)

*2:何もしないで(考えないで)ただぼんやりすることは難しい。→ https://kinarino.jp/cat6/33190
https://forbesjapan.com/articles/detail/36528

*3:「~」には、例えば、発言する、黙秘する、知る、幸福になる、生きる、死ぬ、反対する……等々さまざまな言葉が入る。